[2]端島炭坑・北渓井坑跡

かつての繁栄廃虚の中に


端島
かつて多くの人々が生活したアパートは、木製の柵が朽ち、荒れ果てている=端島
世界遺産への旅 九州・山口の近代化産業遺産群

 ユネスコの世界遺産暫定リストに掲載された九州・山口6県11市提案の「九州・山口の近代化産業遺産群−非西洋世界における近代化の先駆け」。今回から、県内にある構成資産候補を訪ね、紹介していく。

■35年ぶり解禁

 船で近づくにつれ、“軍艦”の全景が見えてきた。居並ぶ高層ビル。辺りを包むのは静寂−。無音の迫力がそこにはあった。

 長崎港の沖に浮かび、石炭の島として栄えた端島(通称・軍艦島)。1974年に閉山して以降無人島になっていたが、今年4月、35年ぶりに上陸が解禁され、再び脚光を浴びている。

 端島の歴史は、1810年に石炭が発見されたことに始まり、90年には三菱による炭鉱の本格的な操業が開始された。構成資産候補としてはこの時期の立坑が対象だが、それ以降も端島の成長は続く。

 1916年に日本初の鉄筋高層アパートが建設された。増え続ける人口に対応するために同様のアパートが次々と新築され、“軍艦”のような外観が形成されていく。41年には、出炭量が最高の約41万トンを記録し、人口は60年に5267人に達した。周囲約1・2キロほどの小さな島は、世界一の人口密度を誇った。

 炭鉱マンなどとして30年以上端島で生活した福留廣さん(88)は「仕事はつらかった」と話す一方で、島の思い出を懐かしそうに振り返る。「『端島銀座』と呼ばれた通りでは、島では取れない野菜などを売る露店が出て、多くの人でにぎわっていた。年に1回開かれる山神祭では、みこしが島を回り、『地獄坂』と呼ばれた階段に差しかかると、多くの人が後をついてまわった。島の人たちは皆仲が良かった。私は『トメさん』と呼ばれていたよ」

北渓井坑
日本初の洋式炭坑である北渓井坑は、水がたまり、井戸のような状態となっている=長崎市高島町
地図
■急速に斜陽化

 燃料の主役が石油に変わると、石炭の需要は減少。石炭産業は急速に斜陽化した。活気に満ちていた端島も、閉山からわずか3カ月で無人島に。

 カメラマンとともに端島に降り立った。かつてにぎわいを見せた「端島銀座」はがれきの山。歩くことも難しい。石炭を運び出していたベルトコンベヤーは支柱が残るのみで、坑道の入り口は固くふさがれていた。

 多くの人々が生活していたアパートは、木製の柵が朽ち、部屋の中には置き去りにされた家具が雑然と並んでいる。端島神社はほこらだけが残っていた。作業中に亡くなった鉱員などの慰霊碑が、境内の片隅で静かにたたずんでいる。

■全国に広まる

 同じく長崎港の沖に浮かぶ高島。島内の「北渓井坑(ほっけいせいこう)」は日本初の洋式炭坑。端島と同様に日本近代化の一幕を飾った歴史的遺産だ。

 英国人貿易商トーマス・グラバーらによって掘削が進められ、1869年に開坑した。蒸気を動力とした巻揚機や排水ポンプ、風車による換気など新技術を採用。波止場までレールを敷いて石炭を運搬するなど、従来とは異なった採炭法で出炭量を伸ばし、その技術は日本全国に広まった。

 しかし、海水の浸入などのため、多くの炭量を残して76年に閉坑。現在では立坑跡に水がたまり、井戸のような状態となっている。

 北渓井坑が廃坑した後も高島炭鉱の開発は進む。81年に岩崎弥太郎が譲り受け、三菱が本格的な経営に乗り出した。1986年に閉山するまで、約100年にわたって生産を続けた。1887年に完成した日本最初の鉄製汽船、夕顔丸は長崎−高島−端島間に就航、人や石炭を運んだ。

 端島も高島も石炭の島であると同時に、人々の暮らしの舞台として営みが続いてきた。端島は今、人の住まない島だが、福留さんは「たとえ世界遺産になっても、自分が生活していた古里」と言う。島への思いが変わることはない。

 文・荒木竜樹
 写真・出口浩二


インタビュー/坂本 道徳さん 軍艦島を世界遺産にする会理事長

営みによる誕生魅力

坂本 道徳さん
 2003年に特定非営利活動法人(NPO法人)「軍艦島を世界遺産にする会」を設立し、同島のガイドとしても活動している坂本道徳理事長(55)に話を聞いた。

 −軍艦島の価値、魅力とは。

 世界遺産は、過去の出来事を未来に伝え、何かを指し示してくれるもの。採炭によって人が増えることで次々とビルが建てられ「日本の未来」とまで言われた輝かしい歴史を持つ島が、なぜ現在のようにぼろぼろになってしまったのか。軍艦島には日本の未来を考える材料がある。正の歴史にしても負の歴史にしても、現在の軍艦島は人の営みによって生まれたという点が、魅力の一つではないか。

 −今後について。

 軍艦島を案内するときはまず、1時間ほどの講義を受けてもらってから行くようにしている。実際に住んでいた人の話を聞きたいという人は多いし、当時の話を聞いて涙する人もいる。ガイドの育成は今後非常に重要になってくる。保存については、一部保存とするのか、このまま風化するに任せるのか、しっかり考えていく必要があるだろう。


2009年10月24日長崎新聞掲載







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