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  めざせ世界遺産:企画 世界遺産への旅・15
2007年11月10日長崎新聞掲載

旧野首天主堂


=北松小値賀町=

深い信仰心具現化 “安住の地”を求めた島民

写真1
いさり火が旧野首天主堂のシルエットを映し出す=小値賀町野崎郷
 新上五島町津和崎郷の津和崎漁港からチャーター船に乗り込み、北松小値賀町の野崎島を目指した。野首港に上陸後、向かい風にあらがいながら坂を上った。畑地のかんがいで小値賀島に水を送るために建設された野崎ダムを経由し、丘陵地に差しかかると、れんが造りの旧野首天主堂(一九〇八年献堂)が見えてきた。

建設費も工面

 以前取材で同天主堂を訪れたときは夏で、午後の温かい光がステンドグラスから中に降りそそいでいた。だが、今回は強風を防ぐため窓は雨戸で覆われ、入り口の扉から差す外の明かりを頼りに中へと入った。

 同天主堂は、五島や県内外で多くの教会建築に携わった新上五島町出身の鉄川与助が、れんが造り教会としては設計から施工まで初めてすべて手掛けた。外観や建物の構造は洋風だが、壁の内側は曲線を出すため、竹と縄で骨組みを作って土で固め、外側をしっくいで化粧するなど日本の伝統的な建築技術が生かされている。

 現在、島の人口は一人だけ。小中学校を改築した宿泊施設「野崎島自然学塾村」の管理人、野中邦浩さん(31)が住民票を置き、宿泊者や来島者の世話に当たっている。

 だが、島にはかつて野崎と、野首、舟森のカトリックの集落があり、ピークの一九六一年には六百六十人の人口があった。今もあちこちに段々畑の跡が残る。「表面が傾斜しているのは、少しでも表面積を増やそうとした試み。それほど貧しい生活だった」。町歴史民俗資料館学芸員の塚原博さん(58)は、かつての島の暮らしぶりを話す。

 同天主堂の総建設費(二千八百五十五円)は、十七戸の野首のカトリック信者が賄った。集団炊事をしたり、食事を一日二回にするなどして生活を切り詰め、工面したという。塚原さんは「信仰心を具現化した教会」と評する。

貧しさゆえに

 今、同天主堂を訪れるのは、学塾村の宿泊客や教会見学の人がほとんどだが、野中さんによると、娘や孫たちとともに「まだ体が動けるうちに来たい」と、神奈川からはるばる祈りをささげに来た元島民のお年寄りもいた。

 教会に着くまではしゃいでいた人も、中に入ると自然に頭(こうべ)を垂れるという。野中さんは「ステンドグラスの視覚的効果もあるが、厳しい環境にたたずむ教会の静寂さに圧倒されるからではないか」と話す。

 野首出身の信者で、生まれてから六七年まで同天主堂そばで過ごしたという白浜清見さん(73)=長崎市在住=を訪ねた。安住の地を求めて大村藩領から移住したキリシタンの末裔(まつえい)。「船底に板を張り、さらにその上に網をかぶせ隠れたと、子どものころ、祖先の苦労話を祖父から聞いた」と話す。

 「主食は、サツマイモを薄く切ってゆがいて干した保存食『かんころ』やイモ、ムギ。ずっと半農半漁の貧しい生活だった。だが、おミサを告げるほら貝が鳴ると、農作業をしていた手を休めて着物を着替え、野首全域から信者が集まってきた」と振り返る。

 島民は、互いに顔見知りで仲が良かった。中でもカトリック信者が暮らす野首と舟森は、親類関係にある人が多く、親交が深かったという。

 しかし、貧しさゆえに苦しみも多かった。戦後になると、仕事を求めて島を離れる若者も相次いだ。「このまま島で暮らしていけるのか」と白浜さんは不安に駆られた。ちょうどそのころ、妻のキミエさん(72)が二女を出産してからほどなく、命にかかわるような大病を患った。舟森から長崎市に移り住んでいた親類の誘いを受け、白浜さんは移住を決断した。

 白浜さんだけでなく、島の厳しい環境で生活を維持できず、祖先と同じように“安住の地”を求めて野首と舟森の住民は次々と長崎や福岡などに移り住んでいった。舟森は六六年の四十五人、野首は七〇年の六十三人を最後に無人となった。

 「祖先が残してくれた教会を独りぼっちにさせたくなかった。持っていけるものなら長崎に持っていきたかった。島を離れるときは、先祖に申し訳ない、との気持ちでいっぱいだった」

 今も自宅近くの教会に通い続けているという白浜さん。同天主堂は来年、献堂百周年を迎える。「生きているうちに訪れ、懐かしい姿をまぶたに焼き付けたい」。祖先から受け継いだ信仰の証しである同天主堂への思いは今も変わらない。

文・山下哲嗣
写真・吉田利一


写真2
「信仰心を具現化した」旧野首天主堂。野崎島の高台にずっしりとたたずむ=小値賀町野崎郷
写真3
野崎島には町の動物「九州鹿」が約500頭生息している=小値賀町野崎郷

 野崎島とキリシタン  来年、献堂100周年
位置図  野崎島は北松小値賀町の小値賀島の東に浮かぶ周囲19・24キロ、面積7・34平方キロメートル。古くから人が住み、旧石器時代から戦国時代にかけての遺跡や遺物などが多数出土している。かつては野崎、カトリック信者の住む野首と舟森(瀬戸脇)の3集落に660人の人口があったが、今はわずか1人だけ。町の動物である約500頭の九州鹿(じか)が生息する自然豊かな島である。

 この島にキリシタンが移住したのは、江戸時代、五島藩が領地開発を目的に大村藩に領民の移住を要請したことにさかのぼる。このとき、外海など西彼杵半島の2000人とも3000人ともいわれるキリシタンらが、五島に安住の地を求めた。このうち2家族7人が1800年ごろ、当時平戸藩領だった野首に移り住んだ。

 舟森にキリシタンが移住した時期は不明だが、「小値賀の船問屋が、大村で、あす処刑されるという3人のキリシタンを船底の漁網に隠して小値賀に帰港。舟森に住まわせた」という伝承がある。

 明治政府が徳川幕府の禁教令を踏襲したことを受け、野首と舟森の信者は1868年、安住の地を求めて島根県隠岐島沖の竹島(現在、日韓両国が領有権を主張している)を目指すが失敗。翌年、両地区の全住民は平戸に連行され、弾圧を受けたが、平戸監獄に服役中に信仰の自由が認められて野崎島へ戻った。


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