長崎新聞 龍〜なが きょうの日付
カスタム検索





  めざせ世界遺産:企画 世界遺産への旅・9
2007年8月11日長崎新聞掲載

大浦天主堂(下)

=長崎市南山手町=

歴史見詰めてきた聖母 メッセージ伝える原爆大破、信徒物語

写真1
大浦天主堂の入り口にある「日本之聖母像」(1866年建立)は、長崎を見詰めるように立つ=長崎市南山手町

 一九四五年八月九日午前十一時二分、長崎市に原子爆弾が投下された。爆心地から約五キロの大浦天主堂は焼失こそ免れたものの、大きな被害を受けた。

 長崎の原爆遺構を記録する会編「原爆遺構 長崎の記憶」(九三年、海鳥社刊)によると、北向きに立つ天主堂に正面から爆風が直撃した。

 同書は中島政利神父(故人)の証言として「屋根がぐしゃぐしゃに崩れた」「扉が吹き飛び、ステンドグラスがほとんど割れ落ちた」と記録している。

 天主堂の修復には五年を要した。現在のような美しい姿を取り戻したのは五二年六月のことだ。

 「浦上四番崩れ」(一八六七年)の「旅」から帰ったカトリック信徒と子孫が暮らしていた浦上の地は、原爆で一瞬にして灰じんに帰した。

 廃虚を前にぼうぜんと立ち尽くす浦上の人々。そんな中、浦上の集落を巡回して劇を上演する青年グループが現れた。

 青年たちの中には、幕末の「信徒発見」で信仰を表明した森内てる(通称・川上のてる)から数えて四代目の子孫で、若き日の森内秀雄さん(88)=長崎市大橋町=もいた。

 演題は「信仰の礎」。信仰を貫いたために浦上村を追われ、見知らぬ地での苦しい生活や拷問に耐え忍んだ末に、信仰の自由を勝ち取り故郷へ帰還した、たくましい先祖たちの「旅」物語だ。

 劇は大成功した。どこへ行っても感動の拍手に包まれた。「何とかして昔のごと浦上を復興せんば、と思うとった。人は団結と信仰があれば強うなれる」。秀雄さんは穏やかな目で当時の思いを語る。

 「信徒発見」から「旅」、そして原爆。聖母マリアのような美しいたたずまいの大浦天主堂は、長崎という町の特異な歴史を見詰め続けてきた。

 カトリック長崎大司教区の高見三明大司教(61)は「長崎という町は不思議な場所」とキリスト教と長崎の深い縁をしみじみ思う。

 二十六聖人は、処刑を命じた豊臣秀吉を恨まないと公言し、十字架上で息絶えた。浦上村の農民は愛する故郷を無抵抗で追われ「旅」に出た。原爆で打ちのめされた町では「浦上の聖者」永井隆博士が、被爆者救済と世界平和実現に身命をささげた。身をもって「キリストの愛」を示した人たちが長崎に、いた。

 世界は今なお戦争やテロが絶えない。高見大司教は「暴力の連鎖を断ち切り世界平和を実現する」という永井博士の思想をかみしめる。大浦天主堂をはじめとする長崎の教会群は、長崎が長い時間をかけてつむいできたメッセージの象徴といえるのかもしれない。

 「信徒発見」百周年に当たる一九六五年三月、プチジャン神父と潜伏キリシタンの劇的な出会いをかたどった記念碑「信徒発見のレリーフ」が大浦天主堂に建立された。

 秀雄さんの三男美津朗さんは、聖母マリア像にひざまずいて祈る少年三八(秀雄さんの祖父)像のモデルになった。その美津朗さんは昨年十月、肺がんで亡くなった。五十二歳だった。

 大浦天主堂では毎年、三月十七日に「信徒発見」を記念し、ミサが開かれる。晩年はほぼ寝たきりだった美津朗さんは昨年、三月十七日が来ると、むくりと起き上がり、服を着替え「ミサに行く」と両親に告げた。

 ミサではしっかりした表情で、賛美歌を朗々と歌ったという。おとなしかった末っ子の、両親も初めて聞く美しい歌声だった。

 秀雄さんの妻ツギ子さん(83)は「神様のお計らいだったのでしょう」とほほ笑む。両親は息子の中にも、先祖と同じあつい信仰が息づいていたのだと知った。

 「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(新約聖書・マタイ二十二−三十九)
文・松尾 潤
写真・吉田利一


写真2
高台から望む大浦天主堂(左)と長崎港。原爆で壊滅した長崎の町は見事に復興した
写真3
「信徒発見のマリア像」に祈る韓国から来たシスター。大浦天主堂には世界中から巡礼者が訪れる

 長崎とキリスト教  長崎は日本のローマと表現
 イエズス会の宣教師ザビエルは1549年、鹿児島に上陸し、キリスト教を日本に伝えた。翌年には平戸に赴き、約100人の信者を得た。

 長崎では67年、大村氏の家臣長崎甚左衛門に招かれた同会宣教師アルメイダが布教を開始。69年、同会宣教師ヴィレラが最初の教会トードス・オス・サントス教会を現在の春徳寺(夫婦川町)に建てた。

 70、71年、貿易のために長崎港と長崎6町が開かれ、各地からキリスト教徒が移住。80年、キリシタン大名大村純忠は長崎をイエズス会に寄進し、長崎のほぼ全域がキリスト教化した。江戸幕府の禁教令が出た1614年の信者数は5万人ともいわれる。

 被昇天のサンタ・マリア教会(現在の県庁付近)には日本司教区とイエズス会の本部が置かれた。コレジヨやセミナリオなどで西洋の神学、音楽、科学、美術が教えられ、出版も盛んに行われた。町には美しい教会が立ち並び「長崎は日本の良摩(ローマ)なり」といわれた。

 特徴的なのは、キリスト教の隣人愛精神に基づく慈善活動。信徒が1583年に結成した「ミゼリコルジアの組」は、育児院やハンセン病病院を造るなど、社会的弱者の救済に尽力した。


←前頁へ トップページ 記事・企画ページ








長崎新聞社

〒852-8601 長崎市茂里町3-1
TEL:(095)844-2111(大代表)

 このホームページに掲載の記事、写真等の著作権は長崎新聞社または各情報提供者にあります。したがって一切の無断転載、二次利用をお断りいたします。

 ※サイトのプライバシーポリシー
 ※長崎新聞社へのお問い合わせについて


「龍〜なが」アクセスランキング






■休日在宅医
■休日歯科診療







<長崎新聞から>
会社案内
購読申し込み
試読申し込み
採用情報
文化ホール
長崎書道会
カルチャーセンター
折込センター
販売センター
あんしんネット
主催事業
長崎新聞社の本
長崎新聞文化章
新聞ができるまで
社内見学アルバム
音読で脳力アップ
ケータイ版ご案内
広告のご案内
サイトマップ

長崎ばってん囲碁道場

press9

SNI 佐賀新聞・長崎新聞インターネット

Todays.jp

購読申し込み

新聞著作権協議会

共同通信社

日本新聞協会