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  めざせ世界遺産:企画 世界遺産への旅・8
2007年7月28日長崎新聞掲載

大浦天主堂(中)

=長崎市南山手町=

信仰貫き総流罪に 浦上村の信徒受難の「旅」へ

写真1
大浦天主堂で起きた「信徒発見」は、最後の大迫害「浦上四番崩れ」へとつながっていった=長崎市南山手町

 大浦天主堂で起きた劇的な「信徒発見」は、最後の大迫害「浦上四番崩れ」へとつながってゆく。

 江戸幕府のキリシタン禁制を踏襲した明治政府は、一八六八年から翌年にかけて、キリスト教の信仰を公にした長崎浦上村の信徒三千人以上を総流罪とし、金沢、津和野、鹿児島など二十一カ所に配流した。

 「右のほおを打つ者には、左のほおも向けよ」。さながら聖書の有名な言葉のように、信徒たちは無抵抗で故郷を追われ、あつい信仰心を胸に秘めて流刑地へ向かう船に乗り込んだ。

 流刑地では粗食と過酷な労働、さらには非人道的な拷問に苦しめられ、五百人以上が死亡した。浦上の信徒はこの受難を「旅」と呼ぶ。

 「信徒発見」で姉の杉本ゆりとともに信仰を表明した森内てる(通称・川上のてる)は、息子の三八と一緒に島根県津和野町へ流された。

 てるから数えて四代目の子孫、森内秀雄さん(87)=長崎市大橋町=は、母イチさん(故人)から繰り返し「旅」の話を聞かされて育った。

 てるは仲間を励まし続けたためにたたかれ、三日三晩冷たい池に漬けられた。少年の三八は「棄教すれば侍に取り立てて腹いっぱい食わせてやる」と言われたが「パライソ(天国)に行ったほうがよか」と首を横に振った、と母は物語のように秀雄さんに聞かせた。

 「浦上のカトリックの鏡。忘れたらいかん」と秀雄さんは先祖をしのぶ。どんな拷問や誘惑にも負けず信仰を貫いた先祖の強さは、子孫の心にしっかりと刻み込まれている。

 長崎市本原町の山田光雄さん(82)は一九九三年、十三年にわたる研究の成果をまとめ、書籍「帰ってきた旅の群像 浦上一村總流配者記録」を出版した。

 東京や長崎に保存されている文書を集めて調べ上げ、流刑者の行き先と名前、年齢、棄教の有無などを丹念に記録し、「旅」の全容を明らかにした労作だ。

 山田さんの祖父ら先祖も富山や津和野に流された。「子どものころは旅の話ばかり聞かされましたよ」と少し顔をしかめ、山田さんは言う。

 「旅、旅と言うが、言い伝えがあいまいで、みんな津和野に行ったと言うばかり。そんなはずはない。正確な記録を作らないと、と思いましてね」。本はかつて長崎民友新聞の記者として活躍した山田さんの行動力と反骨心の産物でもある。

 そんな山田さんだが、本の結びにはやはりこんな言葉を残した。「国家の権力をもってしても、一介の農民の心の中までは奪い去ることは出来なかった。その人々とは、私共の祖先である」

 「浦上四番崩れ」は欧米の激しい非難を浴びた。近代国家への脱皮を急ぐ明治政府は一八七三(明治六)年二月、ついに禁教令の高札を撤廃し、信仰の自由を認めた。許された信徒たちは長い「旅」を終えて浦上に戻り、苦しい生活を続けながら荒廃した故郷を復興していく。

 「信徒発見」から二十五年目の九〇(明治二十三)年三月。浦上の信徒二千五百人が長い行列を作り、聖歌を歌いながら大浦天主堂へ参拝した。浦川和三郎著「浦上切支丹史」には、杉本ゆりと孫が聖母像にひざまずいて祈る姿が目を引いた、とある。もちろん、川上のてると三八の姿もあっただろう。

 「最後まで耐え忍ぶ者は救われます」(新約聖書・マタイ十−二十二)
文・松尾 潤
写真・吉田利一


写真2
ゴチック建築様式の大浦天主堂は、こうもり傘のような形の「リブ・ヴォールト天井」を備え、祭壇横にはプチジャン神父の墓碑がある=長崎市南山手町
写真3
「浦上四番崩れ」で津和野に流された人々(1920年撮影、浦上カトリック教会「信仰の礎」より)

 浦上四番崩れ  3460人流刑、村は荒廃
 長崎奉行所は1867年、長崎浦上村のカトリック信徒68人を一斉に逮捕。江戸幕府のキリスト教禁教令(1614年)を踏襲した明治政府は68年から翌年にかけて、信仰を公にして棄教を拒否した長崎浦上村の信徒多数を富山以西の計21カ所に流罪とした。

 山田光雄氏著「帰ってきた旅の群像」によると、流刑者は3460人。このうち533人の死亡を確認した。この大量処罰は「一村総流罪」といわれ、村民の大半を失った浦上村は荒廃した。

 戦国時代の浦上村はキリシタン大名有馬氏が領有。有馬晴信は1584年、浦上村をイエズス会に寄進し、村のほぼ全域がキリスト教化した。村民は禁教令後も秘密組織をつくり強固に信仰を守り続けた。

 信仰組織の形態や秩序が崩壊することを「崩れ」という。浦上村では密告のため「一番崩れ」(1790年)「二番崩れ」(1839年)「三番崩れ」(1856年)と江戸末期に「崩れ」が続き、指導者らが検挙された。

 浦上村の潜伏キリシタンは1865年、大浦天主堂でプチジャン神父と出会い信仰を告白。67年、仏式の葬式を拒否して死者を自ら葬り、信仰を公にした。長崎奉行所は高木仙右衛門、守山甚三郎ら主な信徒を逮捕し、「四番崩れ」が始まった。


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