年間企画 カネミ油症を追う


ある女性患者(45)の半生

 発覚から三十九年になるカネミ油症事件。五島市など西日本一帯で健康被害が広がったが公的救済制度はない。被害者は長年苦しみを「封印」され、重大な人権侵害を受けてきた。これまで複雑な経過をたどり、未解明の部分も多い。県央で暮らす油症の女性(45)の半生を通じて被害の実相に触れる。(五島支局・山田貴己)

■校舎の裏で一人

 県内の漁村に生まれ育った。漁師の父、母、妹と暮らし、一九六八年に弟が誕生。その前後、カネミ倉庫製の米ぬか油が、地域の商店に納入された。母は一斗缶を近所の人と共同で注文。小学校入学前、母が商店で一斗缶の油を一升瓶に入れてもらうのを見た。それがすべての始まりだった。

 天ぷら、揚げ物、野菜いため−。油は大切に使われた。女性は入学後、頻繁に鼻血が出るようになった。授業中、突然、真っ白なノートに血が滴り落ちる。慌ててちり紙で鼻を押さえた。

 顔は黒ずみ、大きな吹き出物が首や背中、腕、尻などにできた。無意識にかきむしり、皮膚は「魚の目玉を取ったあと」のようになった。体調が悪く、教室のいすに座っていることもつらくて床に倒れ込んだ。母は顔や体が腫れ、妹や弟も苦しんだ。

 吹き出物は夏場、強烈なにおいを生む。学校でブラウスに血とうみがにじみ、「臭い」と言われる。何度も着替えた。いじめはエスカレート。石を投げられ、追い掛け回された。怖くて仕方なかった。

 唯一、ほっとできたのは級友が外で遊ぶ昼休み。一人、教室に残った。「天気がいいのに何で外で遊ばないんだ」。教師から注意を受けたときは、人が来ない校舎の裏で昼休みが終わるのを待った。不登校という選択肢がない時代。「今日一日は生きよう」。自己嫌悪を抱え、耐えた。

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「次世代まで苦しみを強いる油症。国も企業も絶対に許せない」と語る女性=県内
■追い掛ける魔物

 油症検診は冬場。血液の循環が悪く霜焼けになった。そこが肉が見えるほど割れた。体調不良でいつも寝込み、受診できなかった。検診時期が夏場に変わった中学一年の時に受診。翌年、油症認定。有害物質が体内にあることがつらく、ふさぎ込んだ。

 「中学を卒業したら町を出ていこう」。その日を指折り数えて待ったが、母や親せきから強く勧められ、地元高校へ。蓄膿(ちくのう)症に悩まされ、頭は常に重く、倦怠(けんたい)感が続いた。憎い無数の吹き出物。「これがなくなればいいのに」。風呂場で泣きながら、むしり取るようにゴシゴシと体をこすった。

 八〇年、高校を卒業。油症を隠し、愛知県の繊維工場に就職が決まった。十二年間の悔しさが込み上げ、涙がこぼれた。だが長崎から愛知に向かう夜行列車では複雑な思いに駆られた。「古里から抜け出せた。これから新しい人生が始まる。でもこの体でやっていけるだろうか」

 工場では寮住まい。仕事は工程検査。きつい体を押し、和裁の夜間学校にも週三回通った。入社から半年たったある日、工場の事務所に呼び出された。「あなたは森永ヒ素ミルクの患者ですか。県から検診の通知が来ていますよ」。頭の中が真っ白になった。

 油症は魔物のようにどこまでも追い掛けてくる、体を壊し人生までも破壊しに来る、と思えた。「すみません。カネミ油症なんです。工場を辞めさせないでください」

 二年後、股(また)や関節が激しく痛み、呼吸困難も伴い入院。八三年、退社を余儀なくされた。和裁で身を立てる希望も失い、長崎市の病院に転院。

 「私の症状は油症が原因ですか」

 「油症は主に皮膚に出る。あなたの場合は不安から来ている」

 医師は、精神科を紹介した。診てもらったが、症状は変わらず退院。市内のアパートに住み、見つけた喫茶店の仕事は体力が続かず、親の仕送りで入退院を続けた。生活は苦しく、食事の回数を減らして切り詰めた。

 孤独な状況でも人の役に立ちたいという思いがあった。障害者の詩に曲を付けて発表する「わたぼうしコンサート」が好きで、実行委に手紙や詩を送っていた。手紙を読んだコンサートのボランティアの男性から便りが届いた。入院先へ面会に来てくれたが、精神的には泥沼状態だった。

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女性が20代のころ、入院中に書いた詩。孤独な苦悩と死を意識した言葉が並ぶ
■すべて変えたい

 病の原因を、医師は油症と関連があると言わない。体と心の苦痛の根源があいまいなまま、行き詰まっていた。「楽になりたい」。病院を抜け出し、死に場所を探した。大波止で決意し、海に飛び込もうとしたとき、母の顔が浮かんだ。高校のころのけんかの場面。

 「母さんが油ば食べさせんかったら、こんなに苦しまんで済んだとに」。母は何も言わず、暗い台所で泣いていた。その面影が、踏みとどまらせた。母に今以上の苦しみを与えたくなかった。

 「家族は皆、苦しんでいる。もしかしたら同じような人たちがもっといるんじゃないか」

 油症患者が国などの責任を問う訴訟で、全国統一第五陣の提訴の話があり、原告になることを決めた。福岡の裁判所で意見陳述に臨み、多くの家庭の苦難も知った。

 「生きて語らなければ加害者にも被害者にも伝わらず何も変わらない。自殺は何も解決しない」。ようやく気付いた。

 八六年、ボランティアの男性と結婚。流産の後、生まれた長女は体が弱く、ぜんそくに。長男は学習障害(LD)と診断された。現在、油症の連鎖を懸念しながら重い病に耐え子育てを続ける。

 「油症で命を奪われた子どもや赤ちゃんはたくさんいる。私はその分まで生きようと思う。いじめられたことも、汚染油こそが根源。私たちに起きた、決して許されないことを恐れず語り、伝え、それを生きる力にしたい。今からすべてを変えたいんです」

ズーム
 カネミ油症事件 国内最大規模の食品公害。1968年、カネミ倉庫(北九州市)の食用米ぬか油の製造過程で、カネカ(鐘淵化学工業)製ポリ塩化ビフェニール(PCB)が大量混入し、西日本各地で深刻な健康被害をもたらした。主因はPCBの熱処理で生成されたダイオキシン類。国は、事件発覚の8カ月前、米ぬか油の副産物ダーク油を使った飼料でニワトリが大量死した事実を把握していたが、汚染米ぬか油による被害拡大が続いた。全国で69年までに約1万4000人が被害を届けたが、油症認定は約1900人にとどまる。うち県内認定者は769人で、五島市に689人が集中(いずれも死亡・転出含む。昨年9月末現在)。同市には約250人が暮らしている。

年 表
 1968年 2月ごろカネミ倉庫で米ぬか油製造中にPCB混入、再脱臭し西日本各地で販売。同月、同社のダーク油を配合した飼料でニワトリ大量死。10月にカネミ油症事件発覚
  69年 福岡県の被害者がカネミ倉庫、カネカ(鐘淵化学工業)など提訴
  70年 本県などの被害者が国、カネミ倉庫など提訴(全国統一1陣)。以降、2−5陣、油症福岡訴訟団などが順次提訴
84−85年 1陣の二審、3陣の一審両判決で国、カネカの賠償責任を認め、原告に仮払金が支払われる
  86年 2陣二審で原告側が国、カネカに敗訴。裁判の流れが変わる
  87年 第1陣が国に対する訴訟を取り下げ。以降、各原告団も随時取り下げる
  97年 国が一斉に仮払金返還の調停申し立て
 2004年 被害者が日弁連に人権救済申し立て。油症診断基準にダイオキシンの血中濃度追加
  05年 カネミ油症五島市の会発足。同市で第1回PCB・ダイオキシンシンポジウム
  06年 北九州市で全被害者集会。日弁連が国などに救済勧告。与党が通常国会、臨時国会に救済法案提出を目指したが見送りに

2007年1月4日長崎新聞掲載


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