償いの行方 カネミ油症事件発生から40年
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示談派
 「はした金」で切り崩し


貧困患者に非道な契約

 一九六八年十月に油症事件が発覚した後、五島市玉之浦町、奈留町などの認定患者たちに損害賠償請求訴訟の動きが出始めると、カネミ倉庫は示談交渉を進めた。患者切り崩しの裏工作に奔走し、へき地の貧しい島民たちを混乱させた。患者が要望した金額を値切り、軽症二十万円、中症三十万円、重症四十万円。十二歳未満の支払率70%など、子どもの示談金をさらに切り下げる非道な示談契約書を提示。患者は混迷し、訴訟派と示談派に分裂した。

 「極端に貧乏だった」。油症で今も体調不良に悩む玉之浦町の示談派の男性(47)が、当時を振り返る。三歳の時、父が事故で死亡。母は肉体労働に従事し、五人の子を育てていた。男性が七歳の時、油症が一家を襲った。働き手の母は内臓を壊され、入退院を繰り返して収入が途絶え、生活保護を受けた。

 「裁判する余裕などなかった。カネミは人の弱みに付け込み、はした金で目をつぶらせた」。示談金は、生活費と医療費で消えた。


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「被害者を本気で救済する気がないならカネミ倉庫に企業として生きる権利はない」と話す示談派の男性=五島市玉之浦町
 男性と長姉が症状が重かった。「できもの、大量の目やに、貧血もひどかった。小学校の朝礼のたび、ばたんと倒れた」。兄は大工、姉二人は中卒で関西の紡績工場へ。油症で弱った体を押して働き、実家に仕送りをして支えてくれた。

 「示談だから何も言えない。油症問題はもう終わっている。いつか死ぬ。そう思っていた」。国が油症被害拡大の防止に生かさなかったダーク油事件のことさえ近年まで知らなかった。四年ほど前から油症があらためて注目され始めたが、油症関連の情報はほとんど入ってこなかった。

 昨年、訴訟派に誘われ、患者組織のカネミ油症五島市の会に加入。不安定な医療補償制度の運用で居直るカネミ倉庫、反省の色のないポリ塩化ビフェニール製造会社のカネカ、本格救済に乗り出さない国、治療法が確立しない油症研究−。男性は、矛盾に満ちた状況を再認識した。

 「有害化学物質とダイオキシンの人体実験のような事件なのに、この底無しの罪を誰も償おうとしていない。新認定患者が提訴する裁判では、加害企業と国がしてきたことを必ず暴いてほしい」

◎メモ/ダーク油事件

 1968年2月、西日本一帯でブロイラーが数十万羽大量死。カネミ倉庫が汚染食用油を製造した際の副産物、ダーク油の配合飼料が原因。油症の予兆だったが国は適切に対処せず汚染食用油は食卓へ。8カ月後の油症発覚まで被害が拡大した。


2008年5月21日長崎新聞掲載


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