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長崎新聞120年の歩み18・昭和から平成へ
長崎新聞120年の歩み
<18>

昭和から平成へ 大きな転換期迎えて

「むつ」問題、大水害…“激動”の時代に幕

■「むつ」問題浮上

 1970年代後半から80年代にかけて、時代は「昭和」から「平成」にと変わる大きな転換期を迎え、県内でもさまざまな問題が起きた。

 74(昭和49)年9月、日本初の原子力船「むつ」が、出力上昇試験のための航海途中で放射線漏れを起こした。原因は遮へいリングの設計ミス。「むつ」は帰港を余儀なくされるが、この事故が報道されるや、母港の大湊港(青森県むつ市)がある陸奥湾の漁民らが帰港反対を決議。青森県も反対を表明し、「むつ」は行き場をなくしてしまう。

 政府は75年5月、大湊に代わる新しい母港として、対馬美津島町(現対馬市)の三浦湾を第1候補地に絞り込み、本県選出国会議員に協力を要請する。

 本県が被爆県であり、“核”に対する拒否反応が強いことを知りながらの政府の要請に、「長崎新聞」では同年5月18日付で「政府の神経を疑う〜地元漁民に怒りと反発」と報道。県漁連代表が上京し科学技術庁(現文科省)に「欠陥だらけの原子力船はごめんだ」と決議文を提出(同20日付)したことや、本県議員団も反対を表明するなどの動きの中で、「むつ母港 対馬は白紙還元」(23日付)と、対馬母港化問題は解決したと報じた。

■修理めぐり賛否

 しかし、「むつ」をめぐる問題はこれだけでは終わらなかった。同年8月8日付夕刊で、「むつ、佐世保で修理〜科学技術庁長官が正式表明」のニュースが飛び込む。オイルショック後の造船不況、米海軍佐世保基地の縮小などによる経済の沈滞化を打開する糸口に、と佐世保市の辻一三市長(当時)が「むつ」の修理を「受け入れてもいい」と発言したことが発端だった。

 地元の商工業者らが「受け入れ」支持に回り、母港化問題の再燃を危ぶむ声との間で県内世論は真っ二つに割れる。県議会や佐世保市議会でも賛否をめぐって活発な議論が交わされたが、久保勘一知事(当時)、辻市長とも「母港化と修理は別」「母港化の考えはない」とし、受け入れ反対を求める陳情に久保知事が「断念を要請はしない」と答えるなど受け入れ容認を示唆するような発言があり、「むつ反対請願」も県議会で不採択になった。

 一方、反対派は市民ら5千人が参加した「むつ」母港粉砕佐世保大集会を開催(9月22日付)、県漁連も「修理を強行すれば魚市への水揚げ中止」(9月27日付)と態度を硬化させ、両派の溝は深まっていく。

■政府が正式要請

 76年2月、佐々木義武科学技術庁長官(当時)が県庁を訪れ、久保知事、辻市長に「むつ修理港を正式要請」(2月7日付夕刊)したことで、「むつ」問題は一挙に緊迫する。翌8日付朝刊では「正念場迎えたむつ問題」として、1面のほか3ページにわたって「もつれる賛否の糸〜佐世保選択のとき」「ついにきた要請の日」「被爆県民を無視」「カギ握る見返り条件〜新幹線早期着工も」の見出しで関連記事を展開した。

 さらに、同10日には三木武夫首相(当時)が久保知事、辻市長に直接協力を要請する。

 原子力の平和利用推進という正論を主張する辻市長は原子炉も含めた「核付き」修理を打ち出し、77年4月、徹夜の激論の末、佐世保市議会も同意する。しかし、県は原子炉は持ち込まない「核抜き」修理の方針で、臨時県議会で可決。県と佐世保市の姿勢が分かれる事態となった。


原子力船「むつ」

抗議船団が取り巻く中、佐世保に入港する原子力船「むつ」=1978年10月16日
1978年10月16日付夕刊1面

「むつ」の佐世保入港を報じる1978年10月16日付夕刊1面
1975年5月18日付朝刊

「むつ」の新母港に対馬・三浦湾が第1候補地と伝えた1975年5月18日付朝刊
■「むつ」受け入れ

 県と佐世保市の食い違いで行き詰まり状態が続く中、78年5月に政府から「核付き」修理を再要請された県は、久保知事が「核付きだが、原子炉運転モードスイッチと制御棒駆動盤の鍵は知事が預かる」という「核封印方式」を提案し、県議会、佐世保市議会もこれに同意。知事が漁民説得にも当たり、最終的には経営危機が表面化していた佐世保重工(SSK)の救済が大義名分となった。

 「むつ」は同年10月11日、大湊を出港、同16日には反対派の船の激しい阻止行動の中、佐世保に入港した。緊迫した当時の模様を「長崎新聞」は、「むつ SSK岸壁に接岸〜反対派50隻、激しい抵抗」「佐世保の朝 海も陸も騒然」(16日付夕刊)の見出しで報じた。その後もSSKと日本原子力船研究開発事業団とのトラブルで修理着手の遅れなどがあり、82年8月に修理を終えて佐世保を出港するまで“お騒がせ”は続いた。

 一方、「むつ」受け入れで期待された「見返り」も地元の描いたものとは程遠い結果となった。魚価安定特別基金の創設などはあったものの、地域経済浮揚の起爆剤となる特需はなく、久保知事が受け入れに当たって当時の自民党幹部が約束したという新幹線の優先着工、いわゆる「むつ念書」も国鉄の民営化など経済情勢の変化の中で佐世保がルートから外されるなど曲折があった。

 こうした国の「場当たり的に時間とカネを浪費した原子力行政の象徴」と批判された「むつ」は92年3月に廃船が決定。96年8月から原子炉に代わりディーゼルエンジンを搭載した海洋研究開発機構の海洋地球研究船「みらい」として活用されている。

■報道と「大水害」

 82年7月23日、梅雨末期の集中豪雨は長崎市を中心に、死者・行方不明者299人を出す大災害となった。後に「長崎大水害」と呼ばれ、長崎新聞社も社員が犠牲になったほか、停電と交通網の途絶で新聞製作、配達にも多大な影響を受けた。24日付朝刊では同日午前4時現在として、「死者41、生き埋め183、不明79〜空前の豪雨直撃」「長崎419ミリ〜諫早大水害に次ぐ大惨事」の大見出しで、次のように伝えている。

 「大雨洪水警報発令下の長崎地方は23日午後5時すぎごろから、雷を伴う横なぐりの強い風雨が吹き荒れ、バケツをひっくり返したようなドカ雨に河川や側溝はあふれ、低地部の商店や住宅は濁流につかった」

 報道記者やカメラマンはあふれ出し、濁流と化した水の中を泳ぐようにして取材先を回った。社会面には「狂雨 ナガサキをのむ〜人も家も一瞬、濁流の底」「渦巻くヤミに悲鳴〜相次ぐ悲報、救助もままならぬ」などの見出しが並び、当日の惨状を伝えた。

 悪夢のような一夜が明けた被災地は見るも無惨な姿をさらした。集中豪雨の生々しいつめ跡が次第に明らかになるのに伴い、紙面も災害報道に徹していく。24日付夕刊では「豪雨被害さらに広がる〜死者66、生き埋め105、不明91」「がけ崩れ各地で続出〜幹線道路ズタズタ」、25日付朝刊では写真グラフで被害の状況を特集。「恨み深し長崎豪雨 人々の暮らし根こそぎ」「進まぬ救出作業〜屋根まで土砂が〜ただ無言でシャベル持つ」などの見出しが続いた。

 行方不明者の救出作業が進み、被害の深刻さ、大きさが分かるにつれ、復旧に向けた各種情報も必要になっていった。豪雨から5日目の27日付からは朝刊に「生活情報」欄を設け、水道、電気、ガス、電話、ごみ、生鮮食品、住宅、金融機関の相談窓口、民間協力など細かな生活情報を掲載した。

 論説でも災害発生から2日目の7月25日付のコラム「水や空」を皮切りに、8月7日までに「自然災害の恐怖実現」「復興と防災都市建設を」「復興を都市改造につなげ」と「社説」で3回、「水や空」では10回にわたって大水害を取り上げ、防災への取り組みを提言し続けた。

■昭和天皇ご逝去

 89年1月7日午前6時33分、連日の病状報道で国民が心配する中、昭和天皇が87歳8カ月に及ぶ波乱の生涯を閉じられた。歴代天皇の中で約62年の在位期間は最長。過去の不幸な大戦、そして戦後の復興と激動の時代だった「昭和」が終わり、皇太子明仁親王が直ちに皇位を継承し、翌8日から年号は「平成」に改元された。

 「長崎新聞」では直ちに号外7万800部を発行。早朝の長崎、佐世保の両市内で配布した。

 昭和天皇は皇太子時代を含め5度、本県を訪問されている。人間宣言をされた戦後だけでも3回来県され、常に県民を励ます温かいお言葉を残されている。福江大火、諫早、長崎の大水害など大きな災害が起きるたびに心を痛められ、県民を気遣われた。

 一連の報道で、新聞の見出しと記事の中で「崩御」「ご逝去」と表記が分かれたことが論議を呼んだ。「長崎新聞」では戦後の民主主義への深い理解の下で、常に国民と親しく接せられた昭和天皇のお人柄やお気持ちを酌み、中学生でも分かる「ご逝去」という表現を号外から使用した。

 これに対して古来から使われている「崩御とすべきではないか」という抗議の電話も数多く寄せられた。日本新聞協会に加盟する全国の新聞社で、この日に号外を発行したのは82社。ほとんどが「崩御」の見出しだったが、「ご逝去」の表記をしたのは「長崎新聞」「沖縄タイムズ」「琉球新報」「新日本海新聞」「苫小牧民報」の5紙。しかし、号外、夕刊で「崩御」を見出しにした新聞も東京では翌8日から、県内に配布された全国紙も9日付朝刊からは「ご逝去」に変わった。


道路上にあふれた濁流の中を避難する市民

道路上にあふれた濁流の中を避難する市民=1982年7月23日午後10時すぎ、長崎市大橋町
1982年7月24日付夕刊(上)、同25日付朝刊(下)

長崎大水害の被害の広がりを伝える1982年7月24日付夕刊(上)、同25日付朝刊(下)
1989年1月7日発行(号外)

「昭和天皇のご逝去」を速報した号外=1989年1月7日発行



2009年11月14日長崎新聞掲載



<20完> 未来へ(2009年12月29日)写真有
<19> 「平成」の幕開け(2009年12月12日)写真有
<18> 昭和から平成へ(2009年11月14日)写真有
<17> 出島から茂里町へ(2009年10月10日)写真有
<16> 一県一紙へ(2009年9月12日)写真有
<15> 4紙分離と朝鮮戦争(2009年8月8日)写真有
<14> 戦後混乱期と新聞(2009年7月11日)写真有
<13> 終戦前後の新聞(2009年6月13日)写真有
<12> 戦時下の新聞(2009年5月9日)写真有
<11> 世界大恐慌とテロ(2009年4月11日)写真有
<10> 昭和初頭の長崎日日新聞<下>(2009年3月14日)写真有
<9> 昭和初頭の長崎日日新聞<上>(2009年2月14日)写真有
<8> 大正時代と新聞<下>(2009年1月10日)写真有
<7> 大正時代と新聞<上>(2008年12月13日)写真有
<6> 「明治」から「大正」へ(2008年11月8日)写真有
<5> 「長崎新報」不敬事件(2008年10月11日)写真有
<4> 日清・日露戦争と新聞(2008年9月13日)写真有
<3> 自由民権運動と新聞(2008年8月9日)写真有
<2> 西南戦争と新聞(2008年7月12日)写真有
<1> 揺籃期(2008年6月14日)写真有





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