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長崎新聞120年の歩み17・出島から茂里町へ
長崎新聞120年の歩み
<17>

出島から茂里町へ 政治の見張り役担う

国会正常化で声明 県議会混乱も糾弾

■新聞綱領の制定

 長年のライバルだった「長崎日日新聞」と「長崎民友新聞」が合併して誕生した新生「長崎新聞」は、「長崎国体」を目前に控えた1967(昭和42)年、編集方針と県紙としての基本的な姿勢を示す「長崎新聞綱領」を制定した。内容は、

 1、言論の自由を確保するとともに、新聞の公共性と使命感を忘れず、不偏不党、厳正公平な立場を堅持する

 2、真実を公正敏速に報道し、進歩的かつ清新な論評をかかげる

 3、県民の幸福のために献身し、地方産業経済の発展と地方文化の向上に寄与する

■警告発する役割

 「長崎新聞綱領」の1、2に掲げていることは、報道機関として当然のことだが、それまでの新聞の歩みを振り返るとき、こうした規範や自覚が当初から確立されていたかといえば、必ずしもそうではない。明治期に“政党機関紙”として各地に芽生えた新聞は昭和初期ごろまでその流れを受け継ぎ、内容も自らの主義主張を繰り返し、対抗勢力への攻撃的色彩の濃い紙面に終始していた。

 一方で、戦前から戦時中は政府、軍部による言論弾圧や報道管制が強化され、戦後も連合軍の占領政策の下で、事前検閲制度や新聞コードなどで自由な報道が制限される時代が続いた。

 51年のサンフランシスコ講和条約締結(発効は52年4月28日)で日本は独立を回復。ようやく言論、報道の自由を得たが、当時は報道機関も、国民もこうした自由を行使するには十分に成熟してはいなかったのが現状だった。

 それでも戦後に設立された「日本新聞協会」が46年に「新聞論理綱領」を制定、日本の新聞界の倫理水準は次第に引き上げられていく。54年の新聞週間の代表標語が「新聞は正しい政治の見張り役」となるなど、正しい民主主義の軌道から外れようとする政治や政界に対して新聞が警告を発する役割を担うことに国民の期待が高まっていった。

 それが如実に表れたのは同年起きた「造船疑獄事件」。当時の佐藤栄作自由党幹事長(後に首相)に捜査の手が及ぶと、犬養健法相が検事総長に対して逮捕の延期を指示する指揮権を発動。国会では事件追及と指揮権発動、新警察法案の成立などをめぐって前代未聞の乱闘劇が起きるなど大混乱した。

■九州県紙連名で

 当時の「長崎日日新聞」など九州の県紙9社は、こうした国会や政局の混乱の速やかな収拾を求め、同年6月12日付朝刊1面に連名で「速やかに國(国)会を正道に還(かえ)せ」という4段抜きの社告を掲載。国会の正常化を求めた。

 新聞が国会や政局の正常化を求めて社告を掲載した例としては、合併後の新生「長崎新聞」となって間もない60年6月にもあった。同年6月15日には日米新安保条約をめぐって、全学連のデモ隊が国会構内に突入しようとして警官隊と衝突し、東大生の樺美智子さんが死亡。同17日には河上丈太郎社会党顧問が暴漢に刺されるという事件が起きた。

 新聞は一斉に「暴力を排除し議会民主主義を守れ」と共同宣言を発表。「長崎新聞」も18日付朝刊1面に九州県紙7紙連名で次のように訴えた。

 −国会内外における流血事件は(中略)議会主義を危機に陥れる痛恨事であった。われわれは日本の将来に対して、今日ほど深い憂慮をもつことはない。(中略)ここにわれわれは政府与党と野党が国民の信望にこたえ、議会主義を守るという一点に一致し、今日国民が抱く常ならざる憂慮を除き去ることを心から訴えるものである。


1960年6月5日付「長崎新聞」朝刊1面

議長問題でつかみ合い醜態を見せた県議会の記事=1960年6月5日付「長崎新聞」朝刊1面
1960年6月6日付朝刊1面

議長問題で混乱する県議会に猛省を促す市川謙一郎社長の署名入り論説=1960年6月6日付朝刊1面
1954年6月12日付「長崎日日新聞」

国会の正常化を求めた九州各県紙9社連名の社告=1954年6月12日付「長崎日日新聞」
■議会紛糾を報道

 一方、当時は県議会も議長選出問題をめぐって混乱していた。議長派と5会派の対立は同年6月4日、頂点に達し、深夜の本会議はついに議長席の奪い合いとなり、つかみ合いの大混乱となる。翌5日付「長崎新聞」は朝刊1面に「会期延長か流会か 大混乱〜議長派、五派が激突」「幕切れ寸前つかみ合い」「副議長をなぐる〜議長席の奪い合いで」の大見出しで、この混乱劇を大々的に報道した。

 さらに、6日付朝刊1面でも「県議会の猛省促す〜議長問題は白紙還元せよ」の見出しで、当時の市川謙一郎社長の署名入り論説を掲載。「日本は目下、緊迫した重大な政治的セト際に立っている。いくら国政とは直接関連のない県議会といっても、議長の椅子(いす)の争奪などで血道をあげ、県政を空白にして分裂だ、乱闘だと騒ぎ立てていて、それでことすむ時代ではない。県議会の諸君は冷水で顔を洗って出直す必要がある」と厳しく糾弾した。

■国体カラー掲載

 68年8月1日、佐世保市に本社を置く長崎時事新聞社と合併し、名実共に県紙1県1紙となった「長崎新聞」は、69年には多色刷り輪転機を導入。同年に開催される長崎国体をカラー印刷で報道する準備が整った。

 カラー印刷の第1号は同年7月30日付夕刊1面で、月面着陸に成功したアポロ11号から送られた月面の写真「これが月面だ」。自社撮影の最初のカラー写真は9月8日付朝刊1面の長崎国体夏季大会の開会式だった。これを皮切りに、皇太子ご夫妻(現在の天皇、皇后両陛下)の長崎訪問スナップなど次々とカラー写真を使用したニュースを掲載。国体秋季大会開会式もカラー写真で1面を飾った。

 数年前から競技力の強化に取り組んできたこともあり、国体では夏季大会で水泳、ボート、ヨット勢が活躍。本県は天皇杯、皇后杯ともトップに立ち、続く秋季大会でも体操、バレーボール、バスケットボール、剣道、柔道などで優勝するなど、ほとんどの種目で得点を重ね、最後まで競り合った東京を振り切り、天皇杯、皇后杯を獲得した。長崎新聞には連日、県勢の活躍ぶりが紙面に躍った。

■松浦氏が第1号

 61年9月に主筆として入社以来、1面コラム「水や空」の執筆を続けてきた松浦直治論説室顧問(1903〜85年)が74年、第1回日本記者クラブ賞を受賞した。

 日本記者クラブは69年、日本新聞協会、日本民間放送連盟、日本放送協会が協力して設立した代表的なナショナル・プレスクラブ。設立以来、国内外の要人を招いての会見、記者の報道活動の促進、報道倫理の向上などに努め、国際的にも高い評価を受けている。

 日本記者クラブ賞は、報道・評論活動を通じてジャーナリズムの職業倫理やジャーナリストの社会的地位向上に功績があった個人に贈られるもの。松浦氏は記者生活48年の経験を生かし、県民の社会的、文化的期待に応える新聞人の地位向上に大きな功績が認められるとして全国でただ一人、初の受賞者となった。

 松浦氏は26年4月、朝日新聞大阪本社入社。61年9月に合併して間もない「長崎新聞」に主筆として迎えられ、「末芦人」のペンネームでコラム「水や空」に健筆を振るい、70年1月に代表取締役社長に就任してからも激務の傍ら、「水や空」執筆は欠かさなかった。社長退任後も取締役主筆として多くの連載にも取り組むなど、退社する74年12月までペンを執り続け、現役記者歴48年8カ月の記録を残した。

■節目に社屋移転

 第4次中東戦争を引き金とした70年代の2度にわたるオイルショックによる新聞用紙不足は短期間で終わったものの、国内では“狂乱物価”とまで言われた物価高が響き、世界的な低成長の影響で不況風が新聞業界にも及んだ。

 こうした中の77年、五島三井楽町(現五島市)出身でヤクルト本社社長だった松園尚巳氏(1922〜94年)が長崎新聞社長に就任。プロ野球公式戦開催、地方版の拡充、県、県観光連盟とタイアップした「新観光百選」の制定などに取り組んだ。

 創刊90周年の節目となった79年には、文化庁、長崎市の出島史跡復元計画に率先協力するため、史跡区域内にあった出島町社屋を立ち退き、茂里町の三菱製鋼所跡地に新社屋を建設し移転することになり、同年10月10日付朝刊1面に「本社社屋を新築」の6段抜き社告で公表した。

 新社屋の建設敷地は4960平方メートル。印刷工場棟は鉄筋3階建て(延べ床面積1630平方メートル)で最新型三菱重工製新聞用高速オフセット印刷機を設置。本館棟は鉄筋コンクリート7階建て(延べ床面積8179平方メートル)。1〜3階は大規模集会場を備えた文化ホール、4〜6階が編集、営業、総務など新聞本社各部署が入り、九州2番目の屋上ヘリポートが設けられた。

 同年12月3日起工。印刷工場棟は翌80年6月25日に落成した。新聞製作は鉛活字を用いない電算写植システム(CTS)に移行。新輪転機のテストを重ね、夕刊は7月15日付、朝刊は9月15日付から新輪転機によるオフセット印刷を始めた。

 本館は同年11月23日に完成。休刊日を利用して出島町社屋から移転作業が行われ、翌24日からは新社屋での新聞製作が本格スタートした。


新社屋

屋上にヘリポートを備えた新社屋は1980年11月に完成した=長崎市茂里町
1969年7月30日付夕刊1面

新輪転機で初めてカラー印刷したアポロ11号の月面写真「これが月面だ」=1969年7月30日付夕刊1面
1966年10月12日付夕刊

1969年開催の「長崎国体」を前に、機運盛り上げに向けた「長崎新聞」紙面=66年10月12日付夕刊



2009年10月10日長崎新聞掲載



<20完> 未来へ(2009年12月29日)写真有
<19> 「平成」の幕開け(2009年12月12日)写真有
<18> 昭和から平成へ(2009年11月14日)写真有
<17> 出島から茂里町へ(2009年10月10日)写真有
<16> 一県一紙へ(2009年9月12日)写真有
<15> 4紙分離と朝鮮戦争(2009年8月8日)写真有
<14> 戦後混乱期と新聞(2009年7月11日)写真有
<13> 終戦前後の新聞(2009年6月13日)写真有
<12> 戦時下の新聞(2009年5月9日)写真有
<11> 世界大恐慌とテロ(2009年4月11日)写真有
<10> 昭和初頭の長崎日日新聞<下>(2009年3月14日)写真有
<9> 昭和初頭の長崎日日新聞<上>(2009年2月14日)写真有
<8> 大正時代と新聞<下>(2009年1月10日)写真有
<7> 大正時代と新聞<上>(2008年12月13日)写真有
<6> 「明治」から「大正」へ(2008年11月8日)写真有
<5> 「長崎新報」不敬事件(2008年10月11日)写真有
<4> 日清・日露戦争と新聞(2008年9月13日)写真有
<3> 自由民権運動と新聞(2008年8月9日)写真有
<2> 西南戦争と新聞(2008年7月12日)写真有
<1> 揺籃期(2008年6月14日)写真有





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