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長崎新聞120年の歩み16・一県一紙へ
長崎新聞120年の歩み
<16>

一県一紙へ ライバル紙と合併

通信、製作部門に最新鋭機も

 ■占領に終えん

 1951(昭和26)年9月8日、サンフランシスコ平和条約が調印され、翌52年4月28日、日本は再び独立が認められた。7年近くに及んだ連合国の占領が終わり、プレスコードをはじめとした占領政策の多くが撤廃され、米兵などの犯罪や米国の対日政策について新聞で批判ができるようになった。

 また、用紙事情も回復し、朝・夕刊のワンセット化や共販制から専売制へと移行するなど、新聞は完全な自由競争の時代になった。

 ■対立に批判も

 現長崎新聞の前身、長崎日日新聞(以下長崎日日)にとって最大のライバルは、同じ長崎市内を発行拠点とする長崎民友新聞(以下長崎民友)だった。

 長崎民友の創始者で社長の西岡竹次郎が51年4月の知事選で現職の杉山宗次郎を破って知事に就任すると、県政をめぐって与党的な立場になった長崎民友と野党的な色彩を強める長崎日日の対立が激化する。特に翌52年、長崎の復興をテーマに長崎民友が開催した「長崎復興平和博覧会」への県費補助問題をめぐって両社は紙面で激しい論戦を展開した。

 両社の対立は読者だけでなく、県内各界の有識者からも厳しい批判があった。このころ大手紙やブロック紙は県内での通信網を拡充し、支局を総局に格上げするなど攻勢を強めていた。長崎、佐世保には民放ラジオ局が開設され、後に合併して長崎放送(NBC)が誕生。さらに58年末にはNHK、NBCが相次いでテレビ放映を始めた。

 こうした中、病気療養中の西岡知事が58年1月に死去したことは長崎民友には大きな痛手であった。テレビの登場で情報メディアが新しい時代へと向かう中、両社が従来のような対立を繰り返すよりも「1県1紙」として大同団結を期待する声は社内外からも高まっていた。

 ■「真の郷土紙」

 59年1月15日、両社は対等合併し、「長崎新聞」が誕生する。会長、社長には長崎日日の桑原用二郎会長、市川謙一郎社長が就任。これに先立ち、1月3日付に両社に合併を報じる社告が記載される。

 長崎日日では「本社、民友と合併」「新題号は『長崎新聞』」「十五日から夕刊も発行」の見出しで、合併の趣旨と決意を次のように述べている。

 −(前略)かえりみれば県下新聞界は、去る昭和十六年当時の国家的要請に応ずるため、全県一丸の新聞統合を行い、一県一紙の活躍をしたのでありますが、戦争終結するや、分解して元の各社乱立の姿にたちかえり、今日に及んだのであります。すべて自由経済下における事業は自由競争を原則として進歩発達を図るのは当然でありますが、しかし、それには自由競争を可能ならしむる社会基盤、経済基盤の存在を前提とします。そういう前提を度外視した自由競争は(中略)共倒れを招きやすく、ひいては事業の発展を阻害し、言論活動、報道活動また完全たり得ぬのは改めて説くまでもありません。(中略)今回の合併こそは天の声、地の声なりと確信して、(中略)真の郷土代表紙として輝かしく誕生せんとする「長崎新聞」のため、倍旧の御愛読を賜りますようお願い申し上げます。


題字「新嶋原」

新生「長崎新聞」スタート時の題字
佐世保時事新聞」の題字

新生「長崎新聞」発足後第1号の朝刊1面=1959年1月15日付
題字「長崎日日」

長崎民友との合併を伝える長崎日日の社告=1959年1月3日付
 ■出島に新社屋

 当時の社屋は長崎日日が長崎市船津町(現恵美須町)、長崎民友は同市出島町にあった。しかし共に手狭で、合併後も船津町社屋には編集、工務、企画部門と印刷工場、出島町社屋には社長室、総務、広告部門が分散。両社屋は約1キロ離れており、日常の業務に支障を来していた。

 このため、合併翌年の60年6月から5階建ての出島町社屋を改築するとともに、隣接地に鉄筋コンクリート3階建ての新社屋を建設。出島和蘭商館跡という史跡内にあることも配慮し、モダンな外観の中にもオランダ風の建築要素を取り入れ、61年1月には船津町社屋の各部門が出島新社屋に移転、業務を開始。3月25日に落成式が行われた。

 新社屋には、長崎日日、長崎民友で使用していた超高速の輪転機2台を移設。通信、製作部門には最新鋭機を導入し、当時の鉛活字による印刷の時代としては飛躍的な技術革新が図られた。

 ■目玉は「夕刊」

 新生「長崎新聞」の目玉の一つは長崎市内における夕刊発行だった。戦後一時期に夕刊発行ブームがあったが、同市内では長崎日日が発行していた「長崎タイムズ」(後に「夕刊長崎日日」と改題)が54年5月に休刊して以来、約5年ぶりの復刊となった。

 記念すべき夕刊復刊第1号となった59年1月15日付1面トップは、当日早朝に起きた長崎市の繁華街、思案橋での大火だった。その後も皇太子の結婚式の日取り決定(1月16日付)、市内でゴム会社の火災(同20日付)、長崎視察を終えた駐日ソ連大使が急行車中で長崎生まれの酔漢に乱暴される(同29日付)−などのビッグニュースが相次いだ。

 特に朝・夕刊を通じて紙面を連日のようににぎわせたのは思案橋大火を皮切りに、市内各地で起きた連続不審火。有力容疑者の少年が逮捕された後も不審火は続き、市民を不安のどん底に陥れた。2月3日付夕刊1面は「放火におびえる夜の長崎」「あけ方、相次ぎ四件」「目立つ“理由なき放火”」など、紙面の3分の2を不審火報道が占めた。

 ■「長崎時事」も

 長崎新聞が名実共に「1県1紙」となったのは新生「長崎新聞」誕生からさらに約9年後、佐世保・県北の地元紙「長崎時事新聞」(以下長崎時事)と合併してからだ。

 長崎時事は1904年、「佐世保軍港新聞」として創刊。戦時中は長崎日日、長崎民友、島原新聞と1県1紙政策で「長崎日報」(後に「長崎新聞」と改題)に強制統合させられたが、戦後の4社分離で「佐世保時事新聞」として再出発していた。

 その後、「九州時事新聞」を経て、長崎時事に社名、題字を改め、大手紙やブロック紙、長崎日日、長崎民友など県内有力紙の攻勢にさらされながらも県北唯一の地元日刊紙として親しまれていた。しかし、高度経済成長時代の中で経済情勢の変化や設備の老朽化などで累積赤字を抱え、経営状況は厳しかった。

 県北への伸張を目指す長崎新聞と、累積赤字に悩む長崎時事の思惑が一致。長崎時事は長崎新聞と合併することになり、68年7月31日付をもって廃刊、65年にわたる歴史に幕を閉じた。翌8月1日付の「長崎新聞」1面には「長崎時事新聞を合併〜唯一の郷土紙に」の見出しで社告を掲載。「この大飛躍の転機に際して、いよいよその責務の重大さを肝に銘じ、経営基盤をさらに強固にし、報道体制をいっそう強力にして、いよいよ郷土新聞の使命達成に努め、県民読者各位の期待にこたえるよう努力する」と誓っている。

 ■「諫早大水害」

 新生「長崎新聞」が誕生する前の1957年7月、梅雨末期特有の集中豪雨が県内を襲った。特に諫早地方は7月25日午後7時半ごろから猛烈な雨が降り始め、多良岳山系の各地に土砂崩れが起き、大量の雨水と土砂が同市中心部を流れる本明川水系に流れ込んだ。

 しかも折悪く満潮と重なり、本明川ははんらん。流失した家屋や木材が眼鏡橋や四面橋などにかかり流れをせき止め、濁流が市街地をのみ込む大水害となった。

 「諫早大水害」として記録されたこの豪雨災害は諫早市だけでなく、大村市や島原半島にも及び、県内の死者・行方不明者は815人、被災者は約4万人ともいわれる。このうち、諫早市内だけで死者・行方不明者630人、負傷者1547人、家屋の流失・損壊2828戸、床上・床下浸水5601戸を数えた。自然の猛威の前で人間は全く無力であることを思い知らされた。

 翌26日付の長崎日日1面では死者の推定3000人と報道。結果的には誤報となったが、情報が混乱する中でのことでやむを得ないことだった。さらに「橋際に漂う死体」「本明川はん濫一万戸流失」「四面橋眞っ二つ」「流れ来るおびただしい家屋」「痛まし!死体捜す狂乱の肉親」などの見出しで惨状を報じる一方で、写真は四面橋近くで逃げ遅れた女性が救助される瞬間を掲載。懸命の捜索、救助活動が行われた状況を伝えた。


長崎日日新聞社の社屋

1961年に完成した「長崎新聞」出島新社屋=長崎市出島町

「民友新聞」

諫早大水害最初の紙面で大きく掲載された「四面橋付近の濁流のなかから救出される女性」=1957年7月26日付「長崎日日新聞」朝刊

1949年5月28日付「長崎日日」

諫早大水害の惨状を報じた「長崎日日」の最初の紙面=1957年7月26日付朝刊1面



2009年9月12日長崎新聞掲載



<20完> 未来へ(2009年12月29日)写真有
<19> 「平成」の幕開け(2009年12月12日)写真有
<18> 昭和から平成へ(2009年11月14日)写真有
<17> 出島から茂里町へ(2009年10月10日)写真有
<16> 一県一紙へ(2009年9月12日)写真有
<15> 4紙分離と朝鮮戦争(2009年8月8日)写真有
<14> 戦後混乱期と新聞(2009年7月11日)写真有
<13> 終戦前後の新聞(2009年6月13日)写真有
<12> 戦時下の新聞(2009年5月9日)写真有
<11> 世界大恐慌とテロ(2009年4月11日)写真有
<10> 昭和初頭の長崎日日新聞<下>(2009年3月14日)写真有
<9> 昭和初頭の長崎日日新聞<上>(2009年2月14日)写真有
<8> 大正時代と新聞<下>(2009年1月10日)写真有
<7> 大正時代と新聞<上>(2008年12月13日)写真有
<6> 「明治」から「大正」へ(2008年11月8日)写真有
<5> 「長崎新報」不敬事件(2008年10月11日)写真有
<4> 日清・日露戦争と新聞(2008年9月13日)写真有
<3> 自由民権運動と新聞(2008年8月9日)写真有
<2> 西南戦争と新聞(2008年7月12日)写真有
<1> 揺籃期(2008年6月14日)写真有





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