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長崎新聞120年の歩み11・世界大恐慌とテロ
長崎新聞120年の歩み
<11>

世界大恐慌とテロ 県内の窮状を伝える

五・一五、二・二六事件 軍部中心政治へ加速

■長崎に不況の波

 一九二九(昭和四)年秋に米国から始まった世界大恐慌は、日本を、長崎をその大波にのみ込んだ。海外輸出は振るわず、物価は暴落。中小企業の倒産が相次ぎ、失業者が激増。労働争議や小作争議が起き、社会不安も増大していった。長崎日日新聞(長崎新聞の前身)は三〇(昭和五)年四月六日付で「経済界の不況に連れて〜勞働爭議(労働争議)が激増す」の見出しで、県内の窮状を伝えている。

 不況の波は長崎の基幹産業の造船業にも及んだ。同年十一月には「造船界の不況深刻に〜三菱造船所の淘汰(とうた)」(十一月十四日付)、「三菱長崎造船所が愈(いよい)よ〜職工千九百名を解雇す」(同十六日付夕刊)の記事が見られる。

 翌三一(昭和六)年には全国の海軍工廠(しょう)でも人員整理が行われ、「海軍職工の整理8200人に達す〜佐世保は1373名」(四月七日付)と伝えている。さらに「三菱兵器と電氣(気)兩(両)工場〜愈よ整理を斷(断)行す〜職工493人」と状況は拡大。「之亦(これまた)不景気の犠牲」(五月八日付夕刊)と断じた。

■国立公園に決定

 明るいニュースもあった。三四(昭和九)年三月十六日、雲仙がわが国最初の国立公園に正式決定した。雲仙は明治期に長崎の在留外国人が避暑地として利用したことから開け、日露戦争後はロシアや中国、欧米からの避暑客も増え、観光地としての体裁を整えていった。

 県は一一(明治四十四)年、日本初の県立公園に指定。ゴルフ場などの娯楽施設も整備された。二七(昭和二)年には「大阪毎日」「東京毎日」(現在の毎日新聞)が募集した「新日本八景」の山嶽部門で一位に選ばれ、二八(昭和三)年には名勝地に指定されている。

 国立公園設置法が成立すると、地元は猛運動を展開。長崎日日新聞は三二(昭和七)年十月九日付で「国立公園愈よ確定す〜九州は雲仙、阿蘇、霧島入選〜長崎縣(県)民擧(挙)っての慘(惨)苦の効報いらる」と内定したことを報じ、一ページの写真特集を組んでいる。

 正式決定後の三四(昭和九)年五月にはツツジ満開の雲仙ゴルフ場で約三千人が参加して祝賀会があり、当時の鈴木信太郎知事の音頭による万歳三唱の声は仁田峠を越え、普賢岳山頂まで届いたという。

■観光博覧会開催

 また、同年三月二十五日から約一カ月にわたって、長崎市と雲仙で「長崎國(国)際産業観光博覧會(会)が開かれている。中世から貿易港として栄えてきた長崎の産業振興と、雲仙の国立公園指定を受けて長崎の伝統文化を生かした観光客誘致が狙い。長崎市の会場となった埋め立て地には特設の展示館が建設され、子どもの遊び場や噴水、花壇なども設けられた。

 「長崎日日新聞」は開幕初日の三月二十五日付朝刊で、「祝 國際産業観光博覧會」として八ページの特集を組み、「長崎の傅(伝)統的威力を顯(顕)現し〜國立公園雲仙の眞價(真価)を發(発)揮す」の見出しで、各展示館の説明などを掲載している。


1934年3月16日付「長崎日日新聞

雲仙の国立公園指定を伝える「長崎日日新聞」=1934年3月16日付

1930年11月16日付「長崎日日新聞」夕刊1面

三菱長崎造船所の1900人の大量解雇を伝える記事=1930年11月16日付「長崎日日新聞」夕刊1面

■高まる抗日意識

 一方、当時の日中関係は、満州事変を契機に緊迫の度を増していた。その最中の三二(昭和七)年一月八日、観兵式を終えて帰る途中の天皇の行列に、上海から渡日した朝鮮人青年が爆弾を投げて暗殺を謀ろうとした事件が起きた。「桜田門事件」だ。

 同事件は、中国でも民衆の抗日意識の高まりを招き、ついには安全地帯と思われていた上海共同租界(治外法権の外国人居留地)に中国民衆がなだれ込む事態となった。上海市は戒厳令(非常事態の際に軍隊が全権を握り治安維持に当たること)を敷き、各国の駐屯軍が警備についたが、日本軍が担当した区域が中国軍の警備線内にあったことから両軍の間で武力衝突(上海事変)が起きた。

■上海へ記者特派

 戦闘の拡大とともに、上海と航路があった長崎に続々と上海からの避難民が到着。長崎日日新聞二月三日付には「長崎丸で上海から引揚げ〜本社新聞を寄贈〜一同奪い合って大歓迎」とあり、紙面に引き揚げ者の名簿が掲載されている。

 長崎日日新聞は上海の状況を詳しく報道するため、二月四日付社告で「動亂(乱)の上海へ本社記者特派〜けふ(さ)上海丸にて現地へ向け出發」と発表。同日夕刊には、派遣する向虎治記者の出発の様子を二面トップで写真四枚を組み合わせ、「宛(あたか)も出征のや(よ)うに〜萬(万)歳に送られて〜上海丸出島岸壁を離る〜動亂の上海に向けて」の四段抜き四本見出しで報じている。

 向記者の第一報は二月六日付夕刊一面トップの「壯(壮)烈なる砲臺(台)爆撃〜呉淞沖に停船して觀(観)戰す」(四日午前十一時三十分無電−上海丸にて向本社特派員)。十日付夕刊一面トップでは多数の戦死者が横たわる最前線の悲惨さを伝えている。

■記事解禁に1年

 国内では満州事変以降、軍部や右翼の動きが活発化し、政党や財界の要人に対するテロ行為が相次いだ。三一(昭和六)年に陸軍将校らが軍事政権を目指すクーデターを計画して未遂に終わった「三月事件」「十月事件」をはじめ、翌三二(昭和七)年には民政党の前蔵相、井上準之助や三井財閥の理事長だった団琢磨が襲撃され、殺される「血盟団事件」が起きている。

 しかし、社会を真に震撼(しんかん)させたのは、陸海軍の青年将校が犬養毅首相を射殺した「五・一五事件」だろう。三二(昭和七)五月十五日午後五時、数人の海軍将校が首相官邸に乱入した。犬養首相は「話があるなら聞こう」と将校らを居間に招き入れたが、「問答無用」と顔面に二発の銃弾を浴び、その後死亡した。

 クーデターそのものは失敗に終わったが、事件が各方面に与えた影響は大きく、結果的には事件を鎮圧した軍部の発言力を強めることになった。大正末期の第二次護憲運動の際に加藤高明内閣から始まった政党内閣は約八年で幕を閉じ、日本は軍部を中心とした政治へと流れは加速する。

 軍関係者が凶行に及んだこともあり、長崎日日新聞の五月十六日付では「東京に於(おい)て未曾有の一大不祥事ぼっ發」とだけあり、詳細には触れていない。

 全容が伝えられたのは記事解禁となった約一年後。三三(昭和八)年五月十七日夕刊で「現役陸海軍人と民間右翼團体〜帝國(国)未曾有の重大事件敢行」「犯罪は内容交錯し事件の核心を〓(つか)むは困難〜満一カ年を経過し本日記事解禁」と報じている。

■厳しい報道規制

 「五・一五事件」からわずか四年後の三六(昭和十一)年二月二十六日未明、激しい雪の中で「昭和維新」を掲げて陸軍青年将校らが、岡田啓介首相ら政府要人を襲撃する事件を起こした。「二・二六事件」だ。

 青年将校らは千数百人の兵士を動員し、首相官邸、警視庁、新聞社を襲い、落成したばかりの国会議事堂など、国政の中枢のほぼ全域を占拠した。岡田首相は難を逃れたものの(発生当時は生死不明)、斎藤實内大臣(前首相)、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監らが殺害された。

 国家を大きく揺るがす事件に、厳しい報道規制が敷かれ、同日の「長崎日日新聞」夕刊は印刷直前に鉛版が削られ、事件を伝えたとみられる第一報記事の活字跡がわずかに残るだけ。翌二十七日朝刊も一面トップ記事は夕刊同様削られ、後藤文夫内務大臣の首相臨時代理就任を伝える記述があるだけだった。

 それでも、二十九日夕刊では一面で(1)戒厳司令部の警備(2)戒厳司令部の表玄関(3)陸相官邸の警備(4)斎藤内相邸の弔問風景(5)高橋蔵相の霊前−などの写真特集を組み、二面に「叛徒(はんと)に對し遂に武力強行〜戒厳令下の帝都に軍隊續(続)々〜叛乱部隊は全部帰順」の記事が掲載されている。

【編注】〓は手ヘンに國


長崎日日新聞

「二・二六事件」の記事を削ったと思われる空白を残したまま発行された「長崎日日新聞」=1936年2月27日付

ラジオ欄

発生から1年後に記事解禁となった「五・一五事件」を報じた「長崎日日新聞」=1933年5月17日付



◆メモ  一番人気は古賀植木

 一九三四(昭和九)年に長崎市などで開かれた「長崎国際産業観光博覧会」に呼応して長崎日日新聞は「長崎県特産品」の人気投票を行った。投票を通じて隠れた特産品を一般に紹介、販路拡大を図るのが狙い。二月から投票を受け付け、五月四日付で結果を発表した。

 一位になったのは、銘菓や銘酒などではなく、北高古賀村(現長崎市古賀町)の古賀村園芸組合の植木で、断トツの十四万三千票余りを集めた。

 二位以下(カッコ内は当時の市町村名)は、(2)長浦西瓜(西彼長浦村)(3)日輪パン粉(東彼大村町)(4)銘酒「六十餘洲」(東彼波佐見村)(5)カステーラ(長崎市)(6)晒(さらし)フノリ(西彼神浦村)(7)銘酒「長壽」(東彼宮村)(8)胃腸心臓「健脾丸」(西彼神浦村)(9)北川傘(長崎市)(10)三重うに(西彼三重村)−の順。

 このほか、「壱岐ウオッカ」「雲仙温泉の素」「早川おこし」「銅座傘」「日ノ出飴(あめ)」などが上位にランクされた。



2009年4月11日長崎新聞掲載



<20完> 未来へ(2009年12月29日)写真有
<19> 「平成」の幕開け(2009年12月12日)写真有
<18> 昭和から平成へ(2009年11月14日)写真有
<17> 出島から茂里町へ(2009年10月10日)写真有
<16> 一県一紙へ(2009年9月12日)写真有
<15> 4紙分離と朝鮮戦争(2009年8月8日)写真有
<14> 戦後混乱期と新聞(2009年7月11日)写真有
<13> 終戦前後の新聞(2009年6月13日)写真有
<12> 戦時下の新聞(2009年5月9日)写真有
<11> 世界大恐慌とテロ(2009年4月11日)写真有
<10> 昭和初頭の長崎日日新聞<下>(2009年3月14日)写真有
<9> 昭和初頭の長崎日日新聞<上>(2009年2月14日)写真有
<8> 大正時代と新聞<下>(2009年1月10日)写真有
<7> 大正時代と新聞<上>(2008年12月13日)写真有
<6> 「明治」から「大正」へ(2008年11月8日)写真有
<5> 「長崎新報」不敬事件(2008年10月11日)写真有
<4> 日清・日露戦争と新聞(2008年9月13日)写真有
<3> 自由民権運動と新聞(2008年8月9日)写真有
<2> 西南戦争と新聞(2008年7月12日)写真有
<1> 揺籃期(2008年6月14日)写真有





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