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長崎新聞120年の歩み9・昭和初頭の長崎日日新聞<上>
長崎新聞120年の歩み
<9>

昭和初頭の長崎日日新聞<上> 先駆的取り組み次々と

政党内閣の時代続く 大正天皇が崩御

■県内世論リード

 昭和に入ると明治期から続いていた県内有力紙の「東洋日の出新聞」が一九三四(昭和九)年、「長崎新聞」(現長崎新聞とは無関係)が三五(昭和十)年に相次いで姿を消した。しかし、長崎の「長崎日日新聞」「長崎民友新聞」、佐世保の「軍港新聞」(いずれも現長崎新聞の前身)、島原の「島原新聞」の四社は、それぞれの持ち味を生かした新聞づくりで県内世論をリードした。

 なかでも「長日(ちょうにち)」の略称で親しまれた「長崎日日新聞」は、大正期に一足早く津田式輪転機や県内初の色刷り輪転機を採用するなど、発行能力の増強、印刷の質の向上に取り組み、読者や広告主らの信頼を得た。輪転機を持たなかった「東洋日の出新聞」が廃刊に至ったのも、こうした設備面の立ち遅れが一因だったという。

■災害義援金募る

 昭和に改元されてまもなく、県内では火災や集中豪雨が相次いだ。二七(昭和二)年一月二十二日、西彼樺島村(現長崎市野母崎樺島町)で大火があり、百七十戸が焼失。被災者は八百人に上った。「長崎日日新聞」は同三十一日付に「義捐金(義援金)募集」の社告を掲載。大火の被災者に対して次のような内容で県民に協力を呼び掛けた。(以下かっこ内は現代の漢字や送り仮名)

 −西彼杵郡樺島村の今回の大火災は近來(来)稀に見る悲慘(惨)事で、焼失戸數(数)百七十戸、罹(り)災者八百に上り、野母半島の突端、寒い潮風荒(すさ)む一孤島に、住む家を失って身の肌をさらす、この哀れな人々を想(おも)う時、その不幸せな境遇を悲しまずには居(い)られません。殊に舊(旧)正月を控えて今回の災害は、一層痛ましいものがあるでありませう。依(よ)って本社は是等(これら)罹災者の爲(為)、義捐金を募集することに致しました。どうか皆さん、多少に拘(かか)わらず御同情あらん事を希望いたします。

 同年九月十三日には台風の通過で県内各地は暴風雨に見舞われ、強風に伴う高波で大きな被害を受けた。この時にも県、長崎市、長崎商業会議所、県町村会と長崎市内五新聞社が合同で義援金募集を行っている。

■「ラヂオ」欄新設

 「長崎日日新聞」が力を入れたのは事件や災害報道ばかりではない。二八(昭和三)年、九州初の放送局として日本放送協会(NHK)熊本放送局が開局。六月にラジオ放送を始めると、解説記事付きのラジオ欄を新設。新聞における放送番組掲載の先駆けとなった。社告は試験放送が始まった四月下旬に掲載、次のように説明している。

 −…放送さるゝ(る)講演、音樂(楽)、演藝(芸)その他すべてのものを詳細報道して、ラヂオ加入者のラヂオを聞く時の便宜とし、同時に一般讀(読)者も興味ある讀物として教育、娯樂たらしめたいと思ひ(い)ます。(後略)

 ラジオ欄は単なるプログラムではなく、記事や写真で埋める今日の芸能欄に近い紙面で、予定より半月遅れて同年六月一日付から社会面の左下に掲載。同八日付では「ラヂオ」のカットを付けて、熊本、東京、名古屋、大阪、京城(ソウル)の各局が放送するニュースや朗読、講談などの番組の放送時間などを紹介。番組解説では熊本放送局の岡田嘉子一行の合唱曲「道頓堀行進曲」の歌詞を掲載している。



教育版

県内の各学校に紙面を提供し好評だった「教育版」=1928年6月3日付紙面)
長崎日日新聞

13段制など紙面改革の内容を伝える社告=1930年10月29日付「長崎日日新聞」

■画期的な新企画

 このほか、一九一六(大正五)年十一月三日には、長崎市で皇太子(後の昭和天皇)の立太子礼奉祝小学校連合運動会を実施。一七(大正六)年には県下小学校連合運動会に発展させ、昭和になってからも続いた。

 二七(昭和二)年十月には、大村市の長崎師範学校が主催した教育博覧会に全面協力して紙面で特集。参考として紙面製作の材料や写真を出品した。二八(昭和三)年一月には、当時話題を集めていた日本人による太平洋横断飛行を支援するため、声楽家の立松房子一行を招いたチャリティー演奏会を開催。益金を寄付するなどの文化事業にも取り組んでいる。

 同年二月十三日付からは月二回の予定で「教育版」を新設。一回目は別刷り四ページ。「県勢の振興と実業教育の革新」と題する県の佐藤正俊学務部長の文章を中心に埋めた。二回目は長崎医科大学を登場させるなど、県内の学校に紙面を提供する画期的な企画だった。

 一回目掲載の翌日の社説では「教育版」の意義を次のように述べている。

 −社會(会)の公器をして、その公器の實(実)あらしめるといふ(う)企畫(画)は、世界の廣(広)きを尋ねては知らず、我(わ)が國(国)に於(お)いて、これが初めての試みである。(中略)教育は總(総)べてのものゝ(の)基本。この事に携は(わ)る人の端的な聲(声)を聽(聴)くばかりでも、社會に大いに利する所があろう。(中略)この企ては甚(はなはだ)だ有〓(益)だとは、我等の一家言ではなく、既にこの版の爲に相談した向きは、いづれに於いても、雙(双)手を擧(挙)げて賛成されている。

 「教育版」は好評でまもなく月二回から週一回の掲載になった。

■佐世保新聞併合

 「長崎日日新聞」は三〇(昭和五)年九月一日、「佐世保新聞」の経営権を継承した。同日付一面の社告で「我が長崎日日新聞社は九月一日より佐世保新聞の發(発)行經營(経営)の一切を承繼(継)し、全紙面に一大刷新を加へ、報道の敏速正確を期し、讀(読)者多年の眷顧(けんこ=かわいがる、の意味)に酬(むく)ふる事となりました」と報告している。社長は則元由庸・長崎日日新聞社長が兼務した。

 これを機に、同年十一月から「長崎日日新聞」「佐世保新聞」は従来の「十二段制」から「十三段制」に改めたほか、新しい活字を採用。行間を詰めるなどして一ページあたりの行数を約一割増やし、全八ページで実質約一ページ分を増ページしたのと同じ分量を確保。紙面の充実を図った。

 さらに三一(昭和六)年七月からは、それまでの月曜付録を廃止し、別刷り四ページの「週刊日日」を発行。特集記事や小説、趣味に関する読み物、児童欄、料理の献立など、現代の「日曜版」のような紙面構成が好評で、後にタブロイド判八ページにスタイルを変更した。しかし、約一年半後の三三(昭和八)年一月には「日曜夕刊」に取って代わられる形で姿を消した。

■郡市対抗で駅伝

 スポーツの普及にも寄与した。「佐世保新聞」を併合してまもない三一(昭和六)年七月十九日、「長崎佐世保間郡市對(対)抗驛傅(駅伝)競走」を開催。長崎−佐世保間九三・四キロを七区間で、長崎、西彼、東彼、北高、南高、北松、佐世保の七郡市の代表選手が健脚を競った。

 この日は横なぐりの雨というあいにくの天候だったが、翌二十日付に掲載された記事には「沿道熱狂裡に…悪天候を衝つ走る〜各郡代表に意氣(気)冲(ちゅう)天」の見出しが躍り、当時の模様を伝えている。

 それによると、スタート地点の県庁前には午前七時半のスタートの二時間以上前から各郡市の応援団が詰め掛け、午前七時ごろには身動きもできないほどに。雨にもめげず、郷土の名誉を担う各郡市代表選手に声援を送った。その第一回の優勝は長崎だった。

 現在の郡市対抗県下一周駅伝大会は戦後の五二(昭和二十七)年、長崎民友新聞が同じく長崎−佐世保間(約百キロ)で実施したのが始まりだが、それに先立つ約二十年前に既に同様の駅伝が行われていた。

【編注】有〓(益)の〓は益の旧字


長崎日日新聞

台風災害への義援金募集の社告=1927年9月18日付「長崎日日新聞」
ラジオ欄

1928年6月8日付「長崎日日新聞」に登場した解説記事付きのラジオ欄
1926(大正15)年4月16日付「長崎新聞」

「長崎佐世保間郡市対抗駅伝競走」の県庁前スタート風景=1931年7月20日付「長崎日日新聞」



◆メモ  「長日」朝鮮半島に進出

教育版
牧山耕蔵が社長を務めていた朝鮮新聞社の社屋
 「長崎日日新聞」が「佐世保新聞」を併合した翌年の1931(昭和6)年8月、則元由庸社長が病死した。享年70歳。則元は衆院議員7期、民政党顧問の要職にあり、県政界の重鎮でもあった。

 後任には同年11月、県議会議長を辞任した五島出身の佐々野富章(1865−1935年)が就いたが、政党絡みの内紛で32年12月に辞任。則元と親しかった壱岐出身の牧山耕蔵(1882−1961年)が新社長に就任した。

 牧山は衆院議員や民政党顧問などを務めたほか、朝鮮半島で実業家としても活躍。33(昭和8)年1月には朝鮮半島への進出を期し、牧山が社長を務めていた「朝鮮新聞」を姉妹紙に取り込み、朝鮮半島各地に35支局を開設した。

 当時の朝鮮半島は日韓併合条約(1910年)で日本の統治下にあった。もともと本県と朝鮮は歴史的なつながりも深く、約3万人の本県出身者が朝鮮半島各地に居住していたという。また北には新興国家の満州国もあり、「長日」の社業の拡大、発展を図るには魅力あふれる新天地だった。



2009年2月14日長崎新聞掲載



<20完> 未来へ(2009年12月29日)写真有
<19> 「平成」の幕開け(2009年12月12日)写真有
<18> 昭和から平成へ(2009年11月14日)写真有
<17> 出島から茂里町へ(2009年10月10日)写真有
<16> 一県一紙へ(2009年9月12日)写真有
<15> 4紙分離と朝鮮戦争(2009年8月8日)写真有
<14> 戦後混乱期と新聞(2009年7月11日)写真有
<13> 終戦前後の新聞(2009年6月13日)写真有
<12> 戦時下の新聞(2009年5月9日)写真有
<11> 世界大恐慌とテロ(2009年4月11日)写真有
<10> 昭和初頭の長崎日日新聞<下>(2009年3月14日)写真有
<9> 昭和初頭の長崎日日新聞<上>(2009年2月14日)写真有
<8> 大正時代と新聞<下>(2009年1月10日)写真有
<7> 大正時代と新聞<上>(2008年12月13日)写真有
<6> 「明治」から「大正」へ(2008年11月8日)写真有
<5> 「長崎新報」不敬事件(2008年10月11日)写真有
<4> 日清・日露戦争と新聞(2008年9月13日)写真有
<3> 自由民権運動と新聞(2008年8月9日)写真有
<2> 西南戦争と新聞(2008年7月12日)写真有
<1> 揺籃期(2008年6月14日)写真有





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