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長崎新聞120年の歩み
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8・大正時代と新聞<下>
<8>
大正時代と新聞<下>
「大震災」大々的に報道
政党内閣の時代続く 大正天皇が崩御
■未曾有の惨事
一九二三(大正十二)年九月一日午前十一時五十八分、関東地方は相模湾北西部を震源とするマグニチュード(M)7・9の大地震に襲われた。被害は東京府(当時)や神奈川県など一府八県に及び、死者・行方不明者約十四万二千八百人、負傷者約十万三千人、家屋の焼失約四十四万七千戸、全半壊約二十五万四千戸、被害総額六十五億円(当時)に上る未曾有の大惨事となった。「関東大震災」だ。
特に東京、横浜は壊滅状態。当時東京にあった新聞社は東京日日新聞など三社を除き焼失。焼け残った中で一番早く復旧した東京日日新聞が九月五日付夕刊を発行するまで、新聞報道はまひした。この間、パニックになった民衆の暴動や、デマやうわさが原因で朝鮮人に対する迫害行為などが起き、戒厳令が発令されるなど治安の混乱が続いた。
また、陸軍や憲兵隊の中には混乱に乗じて社会主義や労働運動の指導者を一掃しようとする動きもあり、甘粕正彦陸軍憲兵大尉による大杉栄らの殺害事件(甘粕事件)や労働運動の指導者らが戒厳令下で近衛師団の兵士に殺される亀戸事件などが起きた。
■義援金を募集
本県では「長崎日日新聞」(現長崎新聞の前身)が翌九月二日付で「關東(関東)方面に大地震」の見出しで第一報を伝えたが、東京、横浜との通信網が寸断され、詳しい被害状況は不明。このため、長野や静岡、高崎など周辺地域から電話での情報を基に同日、片面一ページの号外で「振古未曾有の震災」「死屍(しし)累々の生地獄」「横浜市の大悲惨」などの見出しで断片的に報じるしかなかった。
状況が次第に明らかになるに従い、九月三日付からはほぼ全紙面を使って被災状況を展開。同五日付以降は特大の木彫り活字を使って「大震災の惨害 全く驚く外(ほか)なし」などの見出しで大々的に報道している。同七日付からは生々しい現場写真も掲載した。
また、震災から三日目の九月三日付朝刊には「大震災義捐金(義援金)募集」の社告を出し、募金活動を開始。さらに同日夕刊で長崎市、長崎商議所、ライバル紙の「長崎新聞」(現長崎新聞とは無関係)と四者連名で義援金募集(一口五十銭以上)の社告も出し、寄付した人の名前を紙面に載せている。
■護憲運動再び
関東大震災直後に発足したのが薩摩藩(鹿児島)出身で日本海軍の育ての親とも称された山本権兵衛を首班とする第二次山本内閣。“地震内閣”とも呼ばれ、震災後の復興に追われた。その最中、通常議会の開会式出席のため自動車で貴族院へ向かっていた皇太子(後の昭和天皇)が狙撃される事件(虎ノ門事件)の責任を取り、翌二四(大正十三)年一月、発足後わずか四カ月足らずで総辞職した。事件を未然に防げなかったとして警視総監の湯浅倉平(後に内大臣など歴任)と、警視庁警務部長だった正力松太郎(後に読売新聞社主)も懲戒免官になっている。
山本内閣の後を受け枢密院議長の清浦奎吾を首班とした内閣が発足。熊本県出身の清浦は七十五歳という高齢に加え、閣僚のほとんどを貴族院議員から選び、「超然内閣」「特権内閣」と呼ばれた。
清浦は維新の元勲で政界に隠然たる影響力があった陸軍の長老・山県有朋(一九二二年に死去)の側近中の側近で、第一次護憲運動が起きた第三次桂内閣の成立状況と似通ったところがあった。
当時の主だった政党のうち、政友会(総裁・高橋是清)、憲政会(総裁・加藤高明)、革新倶楽部(党首・犬養毅)は、清浦内閣成立直後から「特権内閣への絶対反対と倒閣運動」の開始を決め、三党で第二次憲政擁護会を結成。衆院解散後の選挙で護憲三派は圧勝し、三派連立で加藤内閣が成立した。
加藤の後も若槻礼次郎、田中義一、浜口雄幸、犬養毅と、犬養が「五・一五事件」で暗殺される三二(昭和七)年までの八年間、五つの内閣が誕生したが、いずれも多数党が政権を握る政党内閣の時代が続いた。
この間、憲法擁護を掲げた国民大会や新聞記者大会が開かれたが、第一次護憲運動と比べると、熱気や規模は低調だった。背景には第一次世界大戦後の慢性的な不況に有効な施策が打てない政党政治に、国民が過大な期待を抱かなくなったことが挙げられる。
大正期の県内の主な新聞
大正天皇崩御を伝える「長崎新聞」の号外(県立長崎図書館所蔵)
■新聞記者大会
それでも運動当初の一九二六(大正十五)年四月十四、十五の両日、在長崎新聞通信記者主催の「全九州新聞記者大会」が長崎市で開かれている。
出席社は、長崎日日新聞のほか、長崎新聞、東洋日の出新聞、長崎民友新聞、長崎プレス、佐世保新報、佐世保日日新聞、島原毎日新聞、島原日日新聞、島原新聞、対馬日日新聞、諫早新聞、五島日日新聞、五島合同新聞など県内各紙と中央紙・通信社の支局。
県外からは鹿児島新聞、鹿児島朝日新聞(いずれも現南日本新聞の前身)、宮崎日日新聞、大分新聞(現大分合同新聞の前身)、大分日日新聞、大分民友新聞、大別府新聞、温泉タイムス、大阪毎日新聞関門支局、八幡新聞、筑豊日日新聞、小倉新聞、西海日日新聞、佐賀新聞など九州の有力紙が出席した。
メーン行事は二日目に三菱造船長崎造船所(現三菱重工長崎造船所)で開かれた南米移民船の「モンテビデオ丸」進水式への参列。大会では則元由庸長崎日日新聞社長が座長を務め、宣言書と決議文を採択。対馬日日新聞が提出した「検事局の新聞差し止め問題で司法大臣への要望」も決めた。四月十六日付「長崎新聞」には出席社の名簿や、大会の様子を報じた記事が掲載されている。
■新元号「昭和」
同年十二月二十五日には病弱のため葉山御用邸(神奈川県)に引きこもり、静養されていた大正天皇が亡くなった。まだ四十七歳の若さだった。
大正天皇は秋ごろに風邪をひいたのが原因で、気管支炎へと症状が悪化。同月十五日に宮内省(当時)が「天皇陛下御異例(天皇陛下がご病気)」と発表すると、帝国劇場や歌舞伎座、新橋演舞場などの劇場は同十八日から興行を中止。亡くなった後も五日間、歌舞音曲が停止となった。
新聞各社は大正天皇が亡くなった二十五日、「聖上崩御」(「聖上」は天皇のこと)の号外を出した。県内でも「聖上陛下崩御 手篤き御看護も空し」(長崎新聞)と黒枠の紙面で報じている。同日、皇太子裕仁親王が践祚(せんそ=天皇の位に就くこと)。新元号は「昭和」に決まり、「改元の詔書」が発付された。
しかし、一連の手続きがスムーズに運んだわけではない。一部新聞が号外で新元号が「光文」に決まったとスクープ。慌てて枢密院の本会議で決定済みの「光文」から「昭和」に変更した、といわれている。
この時期の「長崎日日新聞」の保存紙はないが、ライバル紙の「長崎新聞」は二十五日付夕刊で「改元せられた新年號(号)は昭和と決定す」と伝え、出典を「書経」の「百姓昭明にして万邦を協和す」(国民の平和と世界の共存共栄を願う、という意味)から採った、と紹介している。
「大正時代」は、第一次、第二次護憲運動など民主主義的、自由主義的などの風潮や思想が巻き起こった「大正デモクラシー」と呼ばれる華やかな時代だった半面、第一次大戦後の不況に伴う地方の疲弊や社会の閉塞(へいそく)感など、後に軍部の台頭につながる暗い影が漂う時代でもあった。
関東大震災を速報した1923(大正12)年9月2日付第2号外
特大見出しと生々しい震災の現場写真を掲載した1923(大正12)年9月7日付「長崎日日新聞」夕刊
全九州新聞記者大会の様子を報じた1926(大正15)年4月16日付「長崎新聞」(長崎歴史文化博物館蔵)
◆メモ
大正時代の県内の主な新聞のうち、「長崎日日新聞」「東洋日の出新聞」「長崎新聞」の三紙はそれぞれの歴史と性格に加え、支持する政党や政治グループとのつながりなどから、選挙のたびに激しい論戦を繰り広げた。
一九二四(大正十三)年、衆院選に出馬し当選した西岡竹次郎(一八九〇−一九五八)は、選挙で反対派の新聞に激しい攻撃を受け、それに対する反論の手段がなかったことなどから、自らの手で新聞創刊を決意。同年十一月、「正義の武器」「弱者の味方」を社是に掲げ、「長崎民友新聞(題字は「長崎民友」)を創刊する。
西岡は欧米留学の経験から外国新聞の編集を加味した紙面を展開。一面は「子供欄」「相談欄」で全面つぶし、二面、三面に政治、社会記事を区別なく掲載。不正や人権無視の事件は大きく扱った。
文章は「小学六年生の学力で読める」ように平易に書くことをモットーに、見出しも漢字をできるだけ避け、学童の習字や図画、作文も載せるなど、当時の新聞界では異色の存在だった。
2009年1月10日長崎新聞掲載
<20完> 未来へ(2009年12月29日)
<19> 「平成」の幕開け(2009年12月12日)
<18> 昭和から平成へ(2009年11月14日)
<17> 出島から茂里町へ(2009年10月10日)
<16> 一県一紙へ(2009年9月12日)
<15> 4紙分離と朝鮮戦争(2009年8月8日)
<14> 戦後混乱期と新聞(2009年7月11日)
<13> 終戦前後の新聞(2009年6月13日)
<12> 戦時下の新聞(2009年5月9日)
<11> 世界大恐慌とテロ(2009年4月11日)
<10> 昭和初頭の長崎日日新聞<下>(2009年3月14日)
<9> 昭和初頭の長崎日日新聞<上>(2009年2月14日)
<8> 大正時代と新聞<下>(2009年1月10日)
<7> 大正時代と新聞<上>(2008年12月13日)
<6> 「明治」から「大正」へ(2008年11月8日)
<5> 「長崎新報」不敬事件(2008年10月11日)
<4> 日清・日露戦争と新聞(2008年9月13日)
<3> 自由民権運動と新聞(2008年8月9日)
<2> 西南戦争と新聞(2008年7月12日)
<1> 揺籃期(2008年6月14日)
〒852-8601 長崎市茂里町3-1
TEL:(095)844-2111(大代表)
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