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長崎新聞120年の歩み3・自由民権運動と新聞
長崎新聞120年の歩み
<3>

自由民権運動と新聞 「長崎新報」が創刊

本紙の前身 紙面通じ激しい論戦も

 創成期の新聞を語る上で、当時の政治情勢は避けて通れない。一八七七(明治十)年に起きた西南戦争は、戦況の報道などを通じて新聞の果たす役割を社会に認識させるきっかけになった。その一方で、新聞は政治や政党と深くかかわり、政党活動の一環として新聞が創刊される例も珍しくなかった。

 七四(明治七)年に征韓論に敗れて野に下った旧土佐藩(現在の高知県)の板垣退助(後に自由党総理、内相)らが「立志社」を結成。人間は自由、平等であるとの基本思想に基づき、明治政府の藩閥専制政治を批判。国会開設、憲法制定などを訴える「自由民権運動」が起こり、全国に波及した。

 本県においても、「長崎新聞」(現在の長崎新聞とは無関係)、「長崎自由新聞」(九州初の日刊紙)の創刊に携わった西道仙が、明治政府の外務高官だった旧島原藩出身の丸山作楽(さくら)、西南戦争で従軍記者としても活躍した福地桜痴らとともに国会開設の急進論を展開。自由民権運動の影響で民衆の政治への意識も次第に高まり、各所で政談演説会が開かれた。

 七九(明治十二)年には県会議員選挙が実施され、議長に佐賀県小城郡出身の松田正久が選ばれた。松田正久は国会開設を求める国会期成同盟会の主要人物で、後に自由党から衆議院議員に当選。議長や大蔵、文部、法務の各大臣を歴任。刑法改正や日露戦争後の財政再建などに尽力している。

■政党結成相次ぐ

 八二(明治十五)年には「東洋社会党」と「九州改進党長崎部」が結成されるなど、県内でも政治活動の具体的な動きが始まった。

 「東洋社会党」は、西南戦争で西郷隆盛と呼応した樽井藤吉(奈良県出身、後に衆議院議員)を中心に、島原(長崎という説もある)で、わが国初の社会主義政党として結成された。結成に際して「西海新聞」に広告を出すなど世間を驚かせたが、明治政府から「治安に害がある」との理由で、わずか二カ月余りで解散させられている。

 「九州改進党長崎部」は佐賀出身の大隈重信(後に首相、早稲田大創始者)の「立憲改進党」に同調する政治集団で、弁護士だった家永芳彦や西道仙らが組織。西は同年開設された長崎区会の初代議長になるなど、同党は県内の政治勢力の一翼を形成した。

 一方、経済界でも商工業者が結束。七九年、長崎商法会議所(現在の商工会議所に当たる組織)が設けられ、松田源五郎(十八銀行の創立者の一人)が初代会頭に就任した。松田源五郎は十八銀行頭取のほか、多くの会社設立にかかわり、後に県会議員や市会議長を歴任。衆議院議員も務めた。

絵

当時の政談演説会の様子を描いた絵
県内新聞の変遷(幕末〜明治中期)流れ図

■鎮西日報に対抗

 当時、県内の新聞は、西南戦争後に「長崎新聞」から改題した「西海新聞」の一紙だけが継続して発刊していた。自由民権運動の急進的な動きを警戒した県令の内海忠勝(後に内相、貴族院議員)は、新聞の広報効果に着目。内海の勧めで、鋭才の評判が高かった西彼杵郡長の佐々澄治が官職を辞し、「西海新聞」入社。八二(明治十五)年に「鎮西日報」と改題。従来の隔日発行を日刊に改め、佐々が社長となり、保守色の強い新聞として再出発した。

 「鎮西日報」に対抗して、同年九月に民権派の松田正久、松田源五郎、西道仙らが「西海日報」を創刊。しかし約二年で廃刊となり、しばらく「鎮西日報」一紙の時期が続いた。

 こうした中、民権思想の一層の普及を目指し、改進党系の家永や志波三九郎らが八九(明治二十二)年九月、現在の長崎新聞の前身である「長崎新報」を創刊。初代社長には家永が就任した。創刊の趣意書で「厳格正当なる評論をもって国家の利益と民衆の幸福を増進する」と宣言。保守系の「鎮西日報」と紙面を通じて激しい論戦を展開した。

 また、「長崎新報」に先立ち、同年三月には長崎で最初の経済紙「長崎商報」(日刊)も創刊され、昭和初期まで続いた。

■市制施行と水道

 この年は二月に大日本帝国憲法が公布され、国会開設を翌年に控えていたほか、四月には長崎が全国の約三十数都市と同時に市制を施行。当時の長崎市の人口は約五万五千人で、福岡市(約五万三千人)、熊本市(約五万二千八百人)をしのぎ、全国でも十四番目の都市だった。

 市制施行後の第一回市会議員選挙では、水道建設問題が争点となった。長崎では江戸時代から明治半ばまでコレラや赤痢、腸チフスなどの伝染病がたびたび流行。加えて人口増もあり、井戸水に代わる水源の確保、下水溝や下水路を整備する必要に迫られていた。

 しかし、当初計画されていた水道会社方式では建設費負担が大きすぎることもあり、家永は反対派、西や松田源五郎は賛成派に分かれて激しく対立した。

 その後、水道事業は長崎区から長崎市へと引き継がれたことや、市民の水道の必要性に対する意識の変化もあって、二年後の九一(明治二十四)年にわが国で最初に上水道用ダムである本河内高部水源池が完成、給水を開始した。

 長崎の水道は、近代水道としては横浜、函館に続き全国で三番目だったが、川から原水を取水する二都市とは違い、貯水池ダムという現代と同じ設備の水道方式は、わが国の先駆けだった。


「長崎新報」

題字付きで現存する最も古い「長崎新報」(1896年12月15日付)の一部
「鎮西日報」

「長崎新報」創刊時のライバル紙「鎮西日報」=長崎歴史文化博物館蔵
「長崎商報」

長崎初の経済新聞として創刊された「長崎商報」



家永芳彦
◆メモ 家永芳彦(いえなが・よしひこ、1849−1913年)

 旧佐賀藩出身。戊辰(ぼしん)戦争では官軍として東北地方を転戦した。1872(明治5)年に上京し、佐賀出身の参議、江藤新平に師事。征韓論に敗れて下野した江藤とともに佐賀に帰郷した後、74(明治7)年の「佐賀の乱」では江藤直属の部下として明治政府軍と戦った。その後、長崎に移り、78(明治11)年に県内初の弁護士資格を取得。89(明治22)年4月、長崎市制施行後の市会議員選挙に当選し、初代議長に選ばれた。後に衆議院議員も歴任。保守系の「鎮西日報」に対抗し、「野党的立場で主張する言論機関」として同年9月、「長崎新報」(現在の長崎新聞の前身)の創刊に参加、初代社長に就任した。



2008年8月9日長崎新聞掲載



<20完> 未来へ(2009年12月29日)写真有
<19> 「平成」の幕開け(2009年12月12日)写真有
<18> 昭和から平成へ(2009年11月14日)写真有
<17> 出島から茂里町へ(2009年10月10日)写真有
<16> 一県一紙へ(2009年9月12日)写真有
<15> 4紙分離と朝鮮戦争(2009年8月8日)写真有
<14> 戦後混乱期と新聞(2009年7月11日)写真有
<13> 終戦前後の新聞(2009年6月13日)写真有
<12> 戦時下の新聞(2009年5月9日)写真有
<11> 世界大恐慌とテロ(2009年4月11日)写真有
<10> 昭和初頭の長崎日日新聞<下>(2009年3月14日)写真有
<9> 昭和初頭の長崎日日新聞<上>(2009年2月14日)写真有
<8> 大正時代と新聞<下>(2009年1月10日)写真有
<7> 大正時代と新聞<上>(2008年12月13日)写真有
<6> 「明治」から「大正」へ(2008年11月8日)写真有
<5> 「長崎新報」不敬事件(2008年10月11日)写真有
<4> 日清・日露戦争と新聞(2008年9月13日)写真有
<3> 自由民権運動と新聞(2008年8月9日)写真有
<2> 西南戦争と新聞(2008年7月12日)写真有
<1> 揺籃期(2008年6月14日)写真有





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