カスタム検索
トップ
速報
動画ニュース
ピースサイト
企画・特集
スポーツ
ウェブ写真館
釣り
天気
お買い物
長崎新聞120年の歩み
>
1・揺籃期
<1>
揺籃期
日本初の英字新聞発行
木製と金属の活字併用 画期的な「崎陽雑報」
鎖国時代、海外に開かれた唯一の“窓”だった長崎には、交易品以外にも海外の知識や文化、さまざまな技術がもたらされた。金属活字を使った西洋印刷術や写真術など、新聞をはじめとする出版にかかわる技術の多くは長崎から全国に伝わった。
そのほか、当時の世界情勢などの情報も長崎に最初に入ってきた。オランダ船が入港するたび、出島の阿蘭陀商館長が提出した「阿蘭陀風説書」は江戸幕府が当時の海外の情勢を知る重要な情報源だった。
しかし、一八五四(安政元)年に開国されると「阿蘭陀風説書」はその役割を終え、代わりにオランダは当時植民地であったバタビヤ(現在のインドネシア)の新聞を幕府に献上。それを翻訳したものが「官板バタビヤ新聞」「官板海外新聞」として出版された。「新聞」と名が付いているものの、和紙を二つ折りにしたものに木版活字を使って印刷した冊子型だった。
■外国人向けに
現在のスタイルに近い「新聞」が登場するのは六一(文久元)年。ニュージーランドで新聞を発行していたイギリス人貿易商、ハンサードが長崎市南山手で長崎在留の外国人のために発行した英字新聞「ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー」が最初。ハンサードは上海から印刷機を輸入。長崎をはじめ各地に入港する船舶の動向を伝えようというのが発行の動機だった。
内容も長崎港に出入りする船舶のリストや為替相場、船舶会社などの広告を掲載。ロイター電や各地の英字新聞を転載する形で世界各地のニュースも紹介した。その中には開戦したばかりの米国の南北戦争の戦況を伝えた記事もあった。しかし、同年十月の第二十八号で廃刊。ハンサードは「日本のための新聞」を目指し、貿易の中心地として躍進目覚ましかった横浜に移り、「ジャパン・ヘラルド」と改題して復刊した。
常設展示されている本木昌造が発行した「崎陽雑報」(上段)と「長崎新聞」(下段)=長崎歴史文化博物館
■最初の地方紙
長崎で最初の日本語新聞が発行されたのは六八(慶応四)年、長崎が生んだ近代印刷術の祖、本木昌造が発行した「崎陽雑報」。わが国最初の地方紙で、従来の木製活字と鉛を鋳型に流し込んでつくった金属活字との混合印刷は、当時としては画期的なことだった。
長崎歴史文化博物館(長崎市立山一丁目)の常設展「長崎の海外交流史」の一角に、「崎陽雑報」が本木の作った活字(字母)とともに展示してある。装丁は和紙を二つ折りにし十枚程度をとじ込んだ冊子型。不定期発行で、総部数は約千部。内容は当時の長崎の裁判や行政を管轄していた長崎府の通達、英字新聞の翻訳、居留地に関する記事などがあり、六九(明治二)年の十三号まで確認されている。
■報道本位貫く
崎陽雑報第二号に次のような記事がある。
去(さる)卯(う)年五月十二日、大水ニテ人家数十、橋数枚損失セリ。今年ニ至リ浜町の橋衆議鉄製ニ一決シ、乃(すなわ)チ製鉄所ニ於テ(おいて)製造アリシガ、八月一日其(その)工全ク成就ス。其堅硬久ニ堪(たえ)エルノミナラズ、形容モ亦(また)頗(すこぶ)ル宏麗(こうれい)ナリ
(内容)「昨年五月十二日、洪水があり、人家数十、橋もいくつか流された。今年になって浜町の橋を鉄製に架け直すことが決まり、長崎製鉄所(三菱重工長崎造船所の前身)で製造していたが、八月一日に完成した。この鉄製の橋は堅固で長く使用に耐えられるだけでなく、形もとても美しい」
長崎市の繁華街・浜町の前の中島川に架かるわが国初の鉄製の橋、「鉄(くろがね)橋」の製作にまつわる記事。三菱重工長崎造船所が昨年、創業百五十年を記念して編さんした「長船よもやま話」に当時のいきさつを伝えるエピソードが掲載されている。
それによると六七(慶応三)年の洪水で浜町の大橋も流失した。時の長崎府判事だった沢宣嘉(後に外務卿)から相談を受けた長崎製鉄所の責任者だった本木が「この際、諸外国に見られる鉄の橋を築造しては」と建議。長崎府参謀だった井上馨(後に外務卿や内務大臣など歴任)らの賛同を得て工事一切を長崎製鉄所が担当し、見事に完成させた。
また、第七号では戊申(ぼしん)戦争に関する記事も掲載。佐幕派、新政府派が激しい論戦を繰り返す中央の新聞とは違い、報道本位の編集姿勢をとり続けた。
■日刊紙創刊へ
崎陽雑報はわずか一年足らずで廃刊となったが、本木の印刷技術は七〇(明治三)年に創刊したわが国初の日刊紙「横浜毎日新聞」に生かされた。同紙は当時の神奈川県令(現在の知事)、井関盛艮(いぜき・もりとめ)が近代新聞の必要性を横浜の貿易商らに説いて実現。創刊に当たって井関は本木に協力を要請。本木も日刊紙創刊の好機として活字の作字や鋳造などの技術を提供、門弟を派遣するなど助力を惜しまなかった。
本木は七三(明治六)年、西道仙(医師、漢学者)、松田源五郎(実業家)の協力を得て「長崎新聞」(現在の長崎新聞とは無関係)を創刊。廃刊、復刊を繰り返した後、七六(明治九)年「西海新聞」と改題。七七(明治十)年には西が独立し、九州初の日刊紙「長崎自由新聞」を創刊した。全面ふりがな付きという紙面はその後の新聞に影響を与えた。
幕末から明治初頭の県内の主な新聞一覧
長崎で発行されたわが国最初の英字新聞「ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー」(複製)=長崎歴史文化博物館所蔵
復刊された長崎新聞=長崎歴史文化博物館所蔵
◆メモ
本木昌造(もとき・しょうぞう、一八二四−七五)
長崎会所役人、馬田又次右衛門(北島三弥太という説もある)の子として生まれ、母の実家であるオランダ通詞(つうじ)、本木昌左衛門の養子となる。英語、ロシア語にも堪能で通訳として活躍する傍ら、西洋の諸技術に関心を持ち、特に活字製造、印刷技術を研究。活版印刷の技術は後に大阪、東京、横浜にも広まった。ほかにも航海術や造船、製鉄などの産業にかかわり、長崎製鉄所の頭取などを務めた。明治維新後に職をなくした武士のために私塾を開くなど、教育者としても功績を残した。
2008年6月14日長崎新聞掲載
<20完> 未来へ(2009年12月29日)
<19> 「平成」の幕開け(2009年12月12日)
<18> 昭和から平成へ(2009年11月14日)
<17> 出島から茂里町へ(2009年10月10日)
<16> 一県一紙へ(2009年9月12日)
<15> 4紙分離と朝鮮戦争(2009年8月8日)
<14> 戦後混乱期と新聞(2009年7月11日)
<13> 終戦前後の新聞(2009年6月13日)
<12> 戦時下の新聞(2009年5月9日)
<11> 世界大恐慌とテロ(2009年4月11日)
<10> 昭和初頭の長崎日日新聞<下>(2009年3月14日)
<9> 昭和初頭の長崎日日新聞<上>(2009年2月14日)
<8> 大正時代と新聞<下>(2009年1月10日)
<7> 大正時代と新聞<上>(2008年12月13日)
<6> 「明治」から「大正」へ(2008年11月8日)
<5> 「長崎新報」不敬事件(2008年10月11日)
<4> 日清・日露戦争と新聞(2008年9月13日)
<3> 自由民権運動と新聞(2008年8月9日)
<2> 西南戦争と新聞(2008年7月12日)
<1> 揺籃期(2008年6月14日)
〒852-8601 長崎市茂里町3-1
TEL:(095)844-2111(大代表)
このホームページに掲載の記事、写真等の著作権は長崎新聞社または各情報提供者にあります。したがって一切の無断転載、二次利用をお断りいたします。
※サイトのプライバシーポリシー
※長崎新聞社へのお問い合わせについて
「龍〜なが」アクセスランキング
県内ニュース <14日2時54分 更新>
1
潜伏キリシタンの墓碑群を発見 長崎・多以良(12月24日)
2
ディスカウント大手のドン・キホーテ 浜町アーケードに進出へ(2月11日)
3
建築家・安藤忠雄氏がまちづくり語る 長崎市都市景観賞表彰式(2月12日)
4
相棒の盲導犬アトムを探して 先月夜から行方不明(2月1日)
5
諫早が2年ぶり男女V 県高校新人駅伝(2月12日)
全国・海外ニュース <14日2時54分 更新>
1
最新ニュース速報
2
NY株、反発 ギリシャ情勢好感
3
米財政赤字103兆円 12年度、過去2位の高水準
4
為替相場 14日(日本時間 2時)
5
習副主席、脅威論打ち消し 米中関係「世界で最重要」
長崎の天気
きょうは何の日
論説
コラム 水や空
電子号外
紙面投稿案内
長崎リンク集
有料携帯サイト
ニュース、スポーツ、県内メール速報など。月額315円(税込)
どうなる諫干
排水門開門調査をめぐる動きを掘り下げ
石木ダム問題
建設か、白紙撤回か。議論は過熱する
ピースサイト
被爆地・長崎から原爆・平和を考えます
ながさき動画館
イベントやお祭りなど満載
スポーツながさき
高校スポーツを中心に県勢の活躍を伝えます
V・ファーレン
Jリーグ入りを目指すV・ファーレン長崎
その他
ハウステンボス、ひと往来など
お買い物
長崎の名店・名品を紹介
■休日在宅医
(県医師会)
■休日歯科診療
(県歯科医師会)
<長崎新聞から>
会社案内
購読申し込み
試読申し込み
採用情報
文化ホール
長崎書道会
カルチャーセンター
折込センター
販売センター
あんしんネット
主催事業
長崎新聞社の本
長崎新聞文化章
新聞ができるまで
社内見学アルバム
音読で脳力アップ
ケータイ版ご案内
広告のご案内
サイトマップ
新聞著作権協議会
共同通信社
日本新聞協会