2016年7月14日 長崎新聞掲載
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母の声頼りに逃げる
顔の写真

青田光信さん(86)

爆心地から3・8キロの長崎市十人町で被爆
=長崎市新大工町=

 父は私が佐古国民学校1年のころ、満州でガソリンを売っていた父の弟が危篤になり、現地に渡った。弟は亡くなり、父はそのまま仕事を引き継いだが、流行病にかかり帰らぬ人となった。数年後、あの日を迎えた。

 私は当時10歳で、十人町の借家に母タカ子(ね)と母方の親戚女性と生活。借家には造船所で働く職工3人も下宿していた。

 午前中の空襲警報が解除された後、自宅の庭で友達5、6人と遊んでいた。ふと北の方角を見上げると、キラキラと光るB29が1機だけ真っ青な空を飛んでいた。箱のようなものが落とされ、落下傘が開くのが見えた。

 「何か落としたぞ。見に来い!」。友達を呼んだところで、ピカッとすさまじい光に包まれた。逃げようにも目がくらんで体が動かない。うずくまったところで、家の中にいた母が「こっちに来い」と叫んだ。声の聞こえる方に走り、机の下に潜り込んだ瞬間、爆風が家を襲った。

 気が付くと、吹き飛んだ窓ガラスが畳にびっしりと突き刺さっていた。私と家の奥にいた母、親戚の女性にけがはなかった。夕方に浦上方面を見ると、真っ黒な煙の中に赤い炎がメラメラと燃えていた。その日は自宅近くで野宿。翌日からは、長崎半島の岳路集落にあった職工の実家に母と2人で身を寄せた。

 終戦の1カ月ほど後、学校再開に合わせて十人町へ戻った。原爆で亡くなった人が、解体した民家の廃材を使って火葬されるのをよく見掛けた。焼く途中、遺体の腕や脚が棺おけから飛び出していた。その異様な光景と人を焼く臭いは、今も頭から離れない。

 その後、母は女手ひとつで私を育ててくれた。戦後しばらくは戦中から続けていた、米やイモなどの闇物資を買い付けて売る「担ぎ屋」として、大変な苦労をして働いた。弱音を吐く姿を見たことはない。35年前に亡くなったが、今も頭が上がらない。

<私の願い>

 戦争は二度と起こしてはならない。みんなが平和で楽しい生活を送れるようにしてほしい。そのために、自分の国を自分たちで守る努力を怠ってはいけない。戦争の悲惨さを知るからこそ、いざというときの防衛のために憲法9条を変えることも必要と思う。また、政治や外交の力も高めてほしい。

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