2016年7月7日 長崎新聞掲載
<998>
黒焦げになった家族
顔の写真

青田光信さん(86)

爆心地から2・5キロの長崎市西山町2丁目(当時)で被爆
=長崎市城栄町=

 松山町の自宅では両親と祖母、叔父、きょうだいの11人で暮らしていた。あの日は、いつものように母が作ってくれた弁当を手に「行ってくっけん」と家を出た。

 向かった先は西山町2丁目の長崎経済専門学校(現長崎大経済学部)の体育館。そこに三菱電機長崎製作所の一部が移ってきており、技師見習いとして働いていた。当時15歳だった。

 気分転換のため外に出ると、上空に米軍のB29と、ゆっくりと下降する落下傘が見えた。とっさに中に戻り、「落下傘が落ちたぞ!」と叫んだ。その瞬間、ドーンと大きな音と光。割れた窓ガラスが降り掛かり、背中から出血した。

 自宅が心配になり、同僚と2人で西山峠経由で自宅を目指した。「水をください」とうめきながら倒れている人がたくさんいたが、助けられなかった。浦上天主堂が見える丘まで来ると、視界の先は火の海だった。いったん職場に引き返さざるを得なかった。

 翌朝、長崎駅方面まで迂回(うかい)し、自宅に向かった。駅そばの工場の鉄骨は倒れ、馬車の馬の死骸が何体も横たわり腐敗臭を放っていた。

 ようやくたどり着いた松山町は一面焼け野原。自宅も屋根瓦しか残っていなかった。玄関や裏庭だった所に黒焦げの死体が3体あった。誰なのかも性別も分からない。体の大きさから「これが父、これが祖母。一番小さいのは(当時5歳の)妹だろう」と推測するしかなかった。ほかの家族の姿はいくら捜しても見当たらず、途方に暮れた。遺品を持って帰ろうにも、何もかも燃えてしまっていた。

 それから西坂町の伯母の家に身を寄せた。終戦後間もなく、三菱長崎兵器製作所大橋工場と三菱長崎造船所幸町工場でそれぞれ働いていた姉と兄の無事が分かり、伯母の家で再会した。互いに家族は死んでしまったと思っていたので、泣いて喜んだ。

<私の願い>

 1970年、城山国民学校時代の同級生、内田伯さん(86)らと「旧松山町原爆被爆地復元の会」を結成し、被爆前の世帯名などを地図に落とし込んだ。79歳で脳梗塞になるまでは母校、城山小の平和祈念館のガイドを務めた。戦争があるから核兵器が使われる。とにかく戦争をしてはいけない。

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