2016年6月24日 長崎新聞掲載
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焼け野原 転がる死体
顔の写真

立石丈惠さん(85)

爆心地から3・2キロの飽の浦町1丁目(当時)で被爆
=新上五島町小河原郷=

 旧南松有川町の有川国民学校を3月に卒業し、三菱重工業長崎造船所製缶工場の養成工として、溶接技術を学ぶ日々を送っていた。9日は、数日前の空襲で破壊された工場内を片付けていた。  突然ピカッと強い光が差し、ものすごい風が押し寄せた。上司の指示で、工場内の地面を掘って作った防空壕(ごう)へ避難。その際、口の中にごみや土が入ってきたが、幸いやけどはしなかった。

 その後、壕から出て工場の外に逃げたが、慌てていたので、中の状況を確認する余裕はなかった。

 近くの山にあった社員寮に同僚たちと一緒に無我夢中で走り、無事に到着した。しかし、このまま寮の中にいても再び空襲の目標になるかもしれないという話になり、少し離れた峠で一晩を過ごした。

 誰がどこから聞いてきたのか分からないが、長崎の港から福江まで食料を運搬する船が出ているという。それに乗せてもらって避難しようと、翌朝3人ぐらいで港に向かった。

 数時間かけて必死に歩いた。目の前に広がる光景は一面焼け野原。あちらこちらに死体が転がり、男性か女性か判別できないものもあった。ぼうぜんと眺めるしかなかった。まだ子どもだったので、理解の範囲を超えていたのだと思う。

 その日のうちに港から船に乗って福江に到着。同僚と一緒に港の近くにある駐在所に一晩泊めてもらった。ご飯も出してもらい夢中で食べた。生き残ったんだという感慨はなく、ただただご飯にありつけたことがうれしかった。

 翌朝、福江から実家のある中通島へ船で移動。数時間歩いて実家にたどり着くと、祖父、両親、きょうだいが待っていた。父は私を捜しに長崎まで行ったが、現地で知人から無事を知らされ戻ってきたのだという。家族は「本当に良かった」と喜んでくれた。

<私の願い>

 戦後、多くの子や孫、ひ孫、やしゃごに恵まれ、みんなかわいくて仕方がない。もちろん幸せになってほしい。子どもたちの明るい未来のため、戦争をなくすには他国の意見に耳を傾けることが大事だと思う。自国の利益ばかりを追求するのではなく、相手の国の事情も考えるべきだ。

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