2016年6月16日 長崎新聞掲載
<995>
必死に娘に覆いかぶさる
顔の写真

相浦政子さん(94)

爆心地から3・5キロの長崎市鍛冶屋町で被爆
=西海市西彼町上岳郷=

 被爆当時は23歳。夫と幼い娘、夫の兄夫婦、その娘と息子の計7人でもともと暮らしていたが、夫と義兄は兵隊に取られていたので、私と義姉の2人で、自宅が2階にある古本屋を切り盛りしていた。

 9日は、娘の姿が自宅から見えなくなったので、近所を捜し回っていた。ようやく友達の家で遊んでいるところを見つけ、自宅に連れて帰ってきたところだった。

 突然、ものすごい風が吹き、家中が地震かと思うほどに揺れた。天井にぶら下がっていた電球は吹き飛んで割れた。必死に娘に覆いかぶさりながら伏せた。風と揺れがやんで起き上がると、店の棚は倒れて本は散乱。幸い、私と娘、店番の義姉とその娘の4人にけがはなかった。義姉の息子も大浦の実家にいて無事だった。何が何だか分からず、頭の中が真っ白になった。

 しばらくすると、洋服がぼろぼろになり、体中にやけどを負った人たちが、店の前を次々と歩いて行った。私はめちゃくちゃになった店と自宅の片付けに精いっぱいで、何もしてやれなかった。

 その後、4人で近くの高台にあった防空壕(ごう)に避難した。浦上の方で火や煙が上がっているのが見え、「早く水を掛けて消せばよかとに」と思った。当時は原爆が落ちたことなど知る由もなかった。防空壕には明かりもなく、自宅から持ってきた乾パンやおにぎりを分けて食べる以外は、じっとしているしかなかった。次第に家や店の様子が気になってきたので、数日で戻った。

 雨漏りがしたり本棚が破損したりして早急に修復しなければならなかったが、私と義姉の手には負えなかった。終戦から数カ月して夫が北九州の部隊から戻ってきた。少しずつ修理して、年内には店を再開できた。義兄も無事に帰ってきた。

 「私たち市民は何も悪いことをしていないのに、どうしてこんな目に遭わなければいけないのか」。今もずっと思い続けている。

<私の願い>

 戦争や原爆のような悲惨なことは二度と起こってほしくない。若い人たちに悲しくてつらくて苦しい思いをしてほしくないから。戦時中はしたいことができなかった。当時と比べれば、今の日本はとても幸せだと思う。これがずっと続いてほしい。世界中が平和であることを願っている。

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