2016年6月9日 長崎新聞掲載
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弟を守った仏様
顔の写真

植田政信さん(74)

爆心地から4・4キロの長崎市大浦元町で被爆
=雲仙市国見町神代=

 被爆当時、3歳6カ月だったが、はっきりと脳裏に焼き付いている場面がある。生まれたばかりの弟を守ってくれた仏壇、父に抱きかかえられ高台から眺めた火の海、母の背中越しに見た焼け野原−。

 両親とともに高台にあった長崎市大浦元町に住んでいた。6人きょうだいの5番目。近くの「どんの山」で遊んでいると、10歳上の2番目の姉が「Bが来た」と叫んだ。急いで家に戻り、母ときょうだいで床下の穴に避難。母が生後4カ月の弟を座敷に寝かせたままだと気付いた時、爆音が響いた。

 しばらくして穴から出ると、家の中はめちゃくちゃで灰が積もっていた。弟を寝かせていた場所には、飛ばされた仏壇があった。慌ててみんなでどけると、扉が開いた仏壇に覆われるように、弟はいた。のちに母は弟に「仏様が守ってくれたとよ」と話していた。

 その日の夜、川南造船所から戻った父に抱きかかえられ、高台から長崎市街を見た。赤々と燃え、父の顔も赤く照らされていた。日本の敗戦が伝わると、「造船所の作業員は捕虜に仕返しされる」とデマが流れ、家族で南高神代村(現雲仙市国見町)の母の実家に移ることにした。

 長崎から逃げ出すように真夜中、道ノ尾駅に向かう。私は母に背負われ、弟は2番目の姉の背中に。焼け野原の中、ものすごい異臭で、みんな手で鼻を押さえながら歩いた。母は避難者でごった返す電車の乗り口に立ちふさがり、ほかの乗客の罵声を浴びながら、扉を押さえた両手の脇の下から子ども6人を中に入れたという。母の愛のすごさを感じる。

 母の実家に移ってから生まれたもう1人の弟は、ずっと体が弱かった。がんを患い、5年前に65歳で亡くなる間際、「両親が被爆しているせいだろう」と言ったのが忘れられない。私も同じ不安を抱えながら、今日まで生きている。原爆はまだ終わっていない。

<私の願い>

 子や孫が本当に安心して暮らせる世界になってほしい。そのためには、過去の過ちと惨禍をきちんと伝えていく責務がある。われわれが黙っていては駄目だ。生きている限り被爆者なのだから。世界各国が、反省すべきは反省して前に進むことを強く望む。二度と核兵器は使ってはならない。

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