2016年5月26日 長崎新聞掲載
<992>
5歳の弟 最期の言葉
顔の写真

小林幸子さん(78)

爆心地から1・6キロの長崎市石神町で被爆
=東京都狛江市=

 その日は朝からすごく暑くて、庭の大きなムクノキから、セミの鳴き声が人の声をかき消すほど響いていた。私は7歳。起きてすぐ、我慢できずに浦上川で泳ごうと、近所の友達を誘いに行った。家は浦上川のそばにあり、両親、兄弟6人と一緒に暮らしていた。

 しかし、誘いに行った先で友達のお母さんに「川がまだムクノキの陰になっていて、水が冷たいから駄目よ」と止められた。私の家のムクノキが川面に大きな木陰をつくっていた。仕方なくあきらめ、友達の家の縁側で、みんなでおはじきをして遊んでいた。

 縁側に腰掛け、向かいの三菱兵器工場(三菱長崎兵器製作所大橋工場)を見ていた。一瞬、青い光に包まれた。この世で見たことのない光。瞬間、意識を失った。

 どれくらい時間がたったか分からない。気が付くと友達の家は倒壊し、縁側から離れた所で1枚の畳の下敷きになっていた。けがはなかった。一緒に遊んでいた二つ上の兄が畳を持ち上げてくれた。三菱兵器工場から炎が上がっている。ガクガクと震えながら、無我夢中で自宅へ帰った。

 自宅裏手の防空壕(ごう)の入り口付近で、母が血まみれの赤ん坊を抱いていた。近くの畑にいた母が、けがを負った近所の母子に会い、連れて来ていた。

 弟の輝(あきら)(当時5歳)が防空壕の入り口で「熱かー」と泣きわめいていた。背中と後頭部に大やけどを負っていた。そのとき、防空壕の近くに火が付いた。「逃げろ」という声で一目散に走り、家族は散り散りになった。近くの山に登ると、炎があちこちで上がっているのが見えた。怖くて仕方なかった。

 しばらくして自宅に戻ると、輝は薄暗い防空壕の中で横になっていた。既に昏睡(こんすい)状態で、家族全員で見守った。輝が私を呼んだ。「こんね。おはじきばやるけん…」。最期の言葉だった。「あきらー」。母は叫び続けていた。

<私の願い>

 泳ぐのを止めてくれた友達のお母さんは、浦上川のそばで熱線を浴び亡くなった。ムクノキがなかったら私も同じ運命だった。ずっと被爆体験を語ってこなかったが、後世に残すべきだと考え昨年、手記を出版した。核兵器で人を殺すなんて、モラルを失った人間がやること。死者に代わって訴えたい。

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