2016年3月17日 長崎新聞掲載
<982>
一時、生死さまよう
顔の写真

井上弘さん(82)

爆心地から3・2キロの長崎市西古川町(当時)で被爆
=長崎市古川町=

 当時は磨屋国民学校(現・諏訪小)5年生で11歳。二つ上の兄がいた。風頭山で畑作業に追われるなどしてほとんど授業がない日々。8月9日は、西古川町(当時)の自宅近くの父が勤める印刷所で遊んでいた。

 突然、ピカッと部屋中を照らすような光が差し込んできた。何が起きたか分からず慌てて机の下へ。直後、すさまじい爆風で建物のガラスが割れ、天井からは破片がバラバラと落ちてきた。収まると、近くの防空壕(ごう)へ避難した。昼にもかかわらず空はどす黒く、真っ暗だった。

 壕で家族、親族と合流。次の爆撃を懸念し、愛宕山の別荘へ移った。数日を過ごすうち、「進駐軍が上陸すれば女、子どもは殺される」といううわさが流れた。このため家族らで、島原半島の西有家町(当時)の親戚宅に身を寄せようということになった。

 浦上駅へ向かう道中、ガラス片が刺さった人、やけどを負った人がいた。「水をくれ」という声も聞こえてきたが、先を急いだ。子どもながらに「水をあげたら死んでしまう」ということが分かっていた感じがする。あちこちで、性別も分からぬ無数の遺体がうずたかく積まれ、次々と火葬されていた。怖さと気味悪さから、目をそらして歩いた。遺体を一体ずつ敬意を払いながら弔うという雰囲気はない。平時ならばあり得ないこと。それが戦争なのだと思う。

 こんな状況では汽車は動いていないと親が判断したのか、西有家町への避難を断念。1カ月ほどたって下痢、嘔吐(おうと)が止まらず、一時、生死をさまよった。

 自分は偶然にも机の下に隠れ、難を逃れた。しかし、たまたま爆心地などまで出掛けていて、命を落とした知人もいる。運命というには残酷かもしれないが、自分が生き残れたのも、そういうさだめだったのかもしれない。

<私の願い>

 安全保障関連法の成立、北朝鮮のミサイル発射と、日本とその周辺では大きな動きが続いている。日本の自国防衛のための備えはやむを得ないとも思っている。しかしどんな目的であっても、原爆の悲惨な状況を目の当たりにした者として、核兵器を所持したり使用したりするのは反対だ。

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