2013年5月2日 長崎新聞掲載
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爆音とともに景色一変
顔の写真

杉本典夫さん(75)

爆心地から0・5キロの長崎市城山町1丁目で被爆
=長崎市小浦町=

 当時7歳で城山国民学校2年生。食料品や米を商う両親と、兄姉、祖母ら7人で暮らしていた。当時の城山町は、碁盤目状に道が通り、多くの住宅や商店が立ち並ぶ静かな住宅街だった。

 あの日は、朝から警戒警報が出ていた。祖母が同町の自宅から数百メートル離れた防空壕(ごう)に避難していたため、午前10時ごろ、弁当を届けに向かった。

 壕の入り口から10メートルほど奥にいた祖母のそばで遊んでいると、爆音が聞こえた。「飛行機だ」と思った瞬間、稲光と「ドーン」という激しい音。土煙が壕内の入り口付近に立ち込めた。

 外に出ると、周囲の景色は一変していた。立ち並んでいた木造家屋は、吹き飛び、がれきしかない。あちこちから、火の手が上がっていた。

 しばらくさまよい歩き、油木町の市立商業学校(当時)に下っていった。近くの防空壕には、血みどろでひどいやけどを負った学徒動員の中学生が大勢いた。恐ろしくなって丘に登ると、新しく建てられたばかりの護国神社は跡形もない。近くの小屋に隠れていると、米軍機が飛んできて何回も旋回するのが見えた。

 遠くから父の声が聞こえてきた。町内会長だった父が、城山国民学校で「生存者は集まってください」と呼び掛けていた。会いに行くと父は疲れ切った表情だったが私を抱き上げ、「元気だったか」と涙を流し、喜んでくれた。

 同校の校舎は兵器工場の関連施設として使われていた。校舎は燃え、屋上から人が落ちていった。学徒動員の女生徒が逃げ場を失い、飛び降りたのかもしれない。

 自宅にいた母や姉、兄は爆死した。遺体は真っ黒で、肩を寄せ合うように死んでいたという。

 その後、1カ月ほどは父や祖母と防空壕で生活。父は城山町に残った遺体をいくつも火葬した。しばらくは焼け跡で、雨上がりに青白いリンが見えた。

  <私の願い>

 やっぱり戦争が一番怖い。戦争や核兵器の使用は、絶対にあってはならない。憲法改正も議論されているが、非武装で戦争をしないのが一番よい。核兵器の廃棄も進めてほしい。戦争や核兵器のない世界をつくり出すには、あの日に見た悲惨な光景を多くの人に伝えていくことが重要だと思う。
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