2013年2月14日 長崎新聞掲載
<815>
頑丈な扉吹き飛ぶ
顔の写真

西尾円作さん(97)

入市被爆
=北松佐々町本田原免=

 1943年、深堀村(当時)にあった川南工業深堀造船所に徴用工として召集された。それまでは小佐々で洋服店を営んでおり、裁縫技術が買われて船具工場の製帆部に船のカバー類などを作る工員として入隊。半年目には経験工として班長になった。班員は11人。船倉のハッチカバーや通風カバー、カーテン、ベッドなどを作っていた。

 工場近くに家を借り、妻、子ども2人と暮らしていた。当時30歳。船の艤装(ぎそう)作業が午前10時50分ごろ終わり、操舵(そうだ)室の屋根の上で班員と沖の方を眺めて休んでいた。

 大きな爆発音が響き、直後に激しい熱波を感じた。係留中の8隻の船は、爆風で玉突き状態となって大きく揺れた。長崎市街の方向に目を向けると、あちこちで火の手が上がっていた。慌てて操舵室の屋根から飛び降り、工場近くの防空壕(ごう)へ逃げ込んだ。しばらくして空襲警報は解除。工場に戻ったが窓ガラスは全て粉々。出入り口の頑丈な扉も吹き飛んでいた。

 妻と子どもは防空壕に避難していた。自宅は山陰に位置していたが、窓ガラスは全部割れ、爆風のすさまじさを痛感した。

 翌日工場に行くと、長崎からの通勤者が全然来ていなかった。深堀、野母崎方面からの通勤者も親類捜しでほとんど欠勤。工場長は9日に家族を郷里に疎開させるため工場を休み浦上駅まで荷物を運搬中、家族と共に被爆し、死亡したと聞いた。

 出勤した工員で救援隊が編成された。各工場から数人ずつ死体捜索に派遣され、私は原爆が落ちた翌々日に朝から工場のトラックで浦上に向かった。町は見渡す限り、焼け野原。電柱はまだ燃え続け、焼けただれた馬の死骸も道端にそのままあった。人間の死体もそのまま放置された惨状。家の焼け跡からは何とも言い難い悪臭が漂っていた。

 日本が戦争に勝ったら長崎で洋服店を開こうと思っていた。しかし原爆の恐ろしさを体験し敗戦。すぐに長崎を離れ、郷里に近い北松佐々町で洋服店を再開した。

  <私の願い>

 たった1発の原爆で人や物がほとんど消滅し、一瞬にして何万人もの人命が奪われた。こんなことは二度と起きてはならない。現在の核爆弾は当時の何倍、何十倍もの威力があると聞くと、身の毛がよだつ。人類は破滅するのではないかとの悪夢さえ脳裏をよぎる。
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