2012年11月8日 長崎新聞掲載
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寺の本尊見て息絶え
顔の写真

池田キミさん(89)

救護被爆
=東彼川棚町中組郷=

 当時22歳で既に結婚しており、東彼川棚町中組郷にある日蓮宗常在寺そばの実家に住んでいた。夫は徴兵で県外にいた。8月9日、実家の庭で2歳の長女と遊んでいる時、空が「ピカッ」と光った。しばらくして長崎市の方向の空が赤く染まりだし、怖くなって近くの畑で農作業していた母の元に娘を抱いて走った。暗くなっても空が赤く、「どんな爆弾が落ちたんだろう」と、不安な一夜を明かした。

 列車で川棚駅まで運ばれてきた被爆者は、川棚海軍共済病院、川棚海軍工廠(こうしょう)工員養成所、常在寺に搬送された。その姿を見たのは翌朝8時ごろ、婦人会で呼ばれて同寺に集まった時だった。

 負傷者は寺の境内へ通じる石段を力なく上ってきた。やけどで皮膚が垂れ下がり、焼け残った衣服も血だらけ。約160畳分の本殿に入り、ご本尊を見て安心したのか、そのまま倒れ込んで息を引き取った人もいた。

 本殿は、足の踏み場もないほど多くの負傷者で埋まり、「水がほしい」とか言葉にならないうめき声を上げていた。私は汚れた包帯を洗って干し、乾いたら丸く巻く役割だった。包帯が足りず、住職の奥さまが浴衣を何着もほどいて包帯の代わりにしていたのを覚えている。

 数日後には負傷者の耳や鼻から、うじがわき出すようになっていた。同世代の大学生が4、5人並んで寝かされていたが、あまりにもかわいそうで声を掛けることもできなかった。ただ、うじをはしでつまんで取り除いたり、うちわであおいで暑さを紛らわせてあげるぐらいしかできず、無力さを感じた。

 負傷者が寺で救護を受けている間、住職は通常通りに鐘を鳴らし、お経を唱えてくださったので、みんな元気づけられた。亡くなった方々も安らかに眠りにつけたのではないかと思う。

  <私の願い>

 人が戦争で苦しみながら死ぬ姿は二度と見たくない。川棚町では毎年8月9日に原爆殉難者慰霊祭が開かれているが、私は体力が落ちてしまい、数年前から参加できなくなってしまった。これからは若い世代の人たちが中心になって戦争、原爆の犠牲者の慰霊を続け、平和を守り続けてほしい。
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