2016年7月21日 長崎新聞掲載
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差別と偏見の半生 被爆者なのに厚かましい
顔の写真

小峰秀孝さん(75)

爆心地から1.3キロの長崎市西郷(当時)で被爆
=長崎市さくらの里1丁目=

 セミの鳴き声がひときわ大きい朝だった。下着一枚で長崎市西郷(現・錦1丁目)の自宅を飛び出し、近くの畑でビワの木に登り、セミ捕りに夢中になっていた。

 当時4歳。普段から、飛行機の爆音が聞こえたらすぐに自宅そばの防空壕(ごう)へ逃げるよう母に言われていた。だが、あの日、爆音はせみ時雨にかき消された。突然、爆風で地面にたたきつけられ気を失った。

 目が覚めるとうるさかったセミの鳴き声はやみ、周囲の光景はすべて灰色に変わっていた。怖くなり防空壕に逃げ込むと全身を痛みが襲った。両手両足と腹部に大やけどを負っていた。

 次第に痛みは激しくなり意識を失った。やけどした部分は化膿(かのう)し、うじ虫がわいた。「母ちゃん、おいば殺して」。何度もうめいていたという。救護班が近所の家に来た際、父が私を抱きかかえて連れて行ったが、医師は「こんな大やけどでは、まず助からない」と告げ、治療をしなかった。

 家族8人のうち、両親ときょうだい4人の計6人は無事だったが、祖父は右腕にやけどを負い、自宅そばの掘っ立て小屋に私と一緒に寝かされた。家族の誰かがそばでずっと「秀坊、頑張れ」と励ました。

 祖父は被爆から1週間後に亡くなったが、私のやけどは約8カ月間で奇跡的に治った。ただ、特に右足の甲に大きなケロイドが残り、足首を曲げられず、真っすぐに歩けなかった。

 1947年、西浦上小に入学。学校まで約1キロの山道を1時間以上かけ、つえをついて通った。学校では「腐れ足」「鳥の足」と同級生からばかにされ、毎日のように殴られた。

 3年生のある日。廊下で擦れ違った男性教員が唐突に言った。「なんで真っすぐ歩かんとか。ガネ(カニ)のごたるな」。近くにいた生徒が手をたたいて笑った。恥ずかしくて、悔しくて、涙が出た。原爆を投下した米国を憎んだ。

 学校で受けたいじめは逐一、母に話した。母はじっと話を聞き、時折涙を流しながら励ましてくれた。だが4年生になり、母に言われた。「やけどは一生治らん。大人になってもいじめられるかもしれない。お前はそのたびに母ちゃんに告げ口ばするとか。そんな惨めな人生はない。お前はいつも米国が憎いと言うけど、そうではなく戦争や原爆を憎みなさい」  幼い私にはよく意味が分からなかったが、それ以来、いじめの話はやめ、米国を憎まないよう心掛けた。

 だが、それでストレスがたまり、はけ口は動物に向かった。犬や猫を捕まえては石でたたき殺した。やってはいけないと思いながらも、やめられなかった。

 いじめは続き、死にたいとさえ思った。その一方で自殺を考える自分にぞっとした。何とかならないかと必死に考え、思い立ったのが「決闘」だ。

 5年生の6月。私をいじめていた同級生を学校近くの麦畑に呼び出した。ぼこぼこに殴られたが、彼が草に足を取られて倒れたところを、馬乗りになって殴り返した。彼は「もうやめろ」と言った。決闘に勝ち、自信がついた。いじめはぴたりとやみ、動物虐待もしなくなった。

 ただ、その後の人生でも差別や偏見は続いた。中学卒業後、すし職人になろうとすし店の門をたたいたが「食べ物商売だから被爆者は雇えない」と断られた。

 24歳の時、交際していた女性の父から「被爆者なのに厚かましい。娘に近づかないように」と告げられた。地獄へ突き落とされた気分になり、睡眠薬を飲み自殺を図った。

 目が覚めたとき、母は「もう二度とするな。はいずり回ってでも生きていけ」とすがるような目で言った。もう二度と自殺はしないと誓った。その女性とは父の反対を押し切り結婚(のちに離婚)したが、あの時、心をえぐられた悲しみは、今でも忘れることができない。

<私の願い>

 私は4歳で被爆したので、戦争や原爆についてはっきりした記憶はない。だが、被爆者が戦後、どのように生きてきたかは身をもって知っている。原爆の爆風と熱線から生き延びても、被爆者の苦しみは続く。死の恐怖におののき、けがの痛みに泣き叫びながら、差別、偏見、いじめに耐えなければならない。こんな被爆者を生み出す原爆は、もう二度と使われてはいけない。

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