報道プリズム/シベリアの記憶−旧ソ連抑留問題
大村の藤崎さん 「祖国への希望」いつか消えた

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かつての捕虜収容所を地図で探す藤崎鶴松さん=大村市三城町
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雪で一面真っ白な酷寒の地。来る日も来る日もいてついた地面をスコップで掘った。飢えや寒さで死んだ戦友の亡きがらを埋めるために。墓標代わりの木片を拾いながら「明日はわが身か」と考えると、涙も出なかった。
はるか異国の地で捕らわれの身となり、その日一日を生き抜くのが精いっぱいの日々。「いつかは祖国へ」−かすかな希望さえ、いつしか吹雪にかき消されていた。あれから、もう65年の歳月が流れた。
1945年8月15日。旧陸軍兵士だった藤崎鶴松(88)=大村市三城町=は、旧満州で終戦を迎えた。終戦間際に侵攻してきた旧ソ連軍に拘束され、大勢の同僚と貨車に詰め込まれた。馬小屋のようなわら敷きの寝床で、幾晩も寒さに震えた。
貨車に乗せられてから40日後。旧ソ連西部キーロフ近くの捕虜収容所にたどり着いた。収容された日本兵は千人以上。四季の変化はほとんどなく、冬場は気温零下20〜30度。手を心臓より上げると、すぐに指先が凍り始めた。
小銃を抱えたソ連兵が監視する中、日々、地下坑内で石炭の掘り出し作業を強制された。食事は黒パンと5、6個のジャガイモだけ。ネズミを追い回し、監視の目を盗んで野草を取っては空腹をしのいだ。
寒さと飢え、そして重労働の「三重苦」。「こんな所では死にたくない」。そんな悲痛な思いとは裏腹に、収容所での生活は4年間にも及んだ。
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戦後65年。厚生労働省によると、第2次世界大戦直後、旧ソ連によってシベリアなどソ連領内やモンゴルに抑留され、強制労働させられた元日本兵は約57万5千人。うち約5万5千人が、栄養失調や寒さなどで死亡したとされる。
国は戦後、元抑留者に対する補償を拒み続けたが、今年6月、元抑留者に一時金を支給する戦後強制抑留者特別措置法(シベリア特措法)が成立。一つの節目を迎えたものの、元抑留者の平均年齢は今や88歳。「遅きに失した」との批判もある。元抑留者たちの遠い記憶をたどる。
=敬称略
終戦が「悪夢」の始まり 帰還後も不安ぬぐえず

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過酷な抑留生活を振り返り、涙を流す藤崎さん=大村市三城町
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抑留者にとって「終戦」は、過酷な強制労働の日々の始まりだった。
旧ソ連西部キーロフ近くの捕虜収容所に入れられた元日本兵、藤崎鶴松(88)=大村市三城町=。地下の坑内で、採炭の仕事をさせられた。ダイナマイトで爆破した炭塊をスコップで石炭車に積み込み、搬送。1日8時間の労働が終わると、毎日650段の階段を上って収容所に戻った。
「体はきつくてボロボロやった。疲れていても食事は貧しい。『戦争で負けるとはこういうことなのか』とみじめな気分になったですよ」。藤崎は視線を宙に向けた。
旧ソ連軍に抑留された日本人は、主に旧満州に駐留した関東軍兵士。1945年8月から12月にかけ、貨車でソ連領内やモンゴルの捕虜収容所に運ばれた。収容所はソ連領内のあちこちにあり、その数は約千数百とも2千カ所ともいわれる。
収容所では「共産主義教育」も日常的に行われた。ロシア人講師がレーニン、スターリンの思想などを「指導」。抑留者の中には、共産主義に共鳴する者、熱心に教育を受ける振りをしてソ連側に取り入ろうとする者、無言で抵抗する者などさまざまだった、と藤崎は振り返る。
49年2月。抑留者帰国の報が収容所に伝わった。抑留されて4年。半信半疑だったが、9月1日に貨車で収容所を後にし、20日にナホトカ港に到着。日の丸がはためく帰還船を見た時、万感胸に迫り、ようやく「帰国」を実感できた。
だが、船に乗り込んでも誰も言葉を発しない。みんな放心状態で壁を見詰めたりしてじっと座っている。不思議な静寂。「長い抑留生活の『後遺症』で素直に喜びを表現する気持ちがわかなかったのだろうか」と藤崎は今も首をひねる。
船内で出された弁当はにぎり飯と煮しめ、大根。夢に見た日本食。おいそれと手を付けられず、じっと見ていると涙が出た。
9月24日、京都・舞鶴港から上陸。親類宅に帰り着くと、親せきや近所の住民数十人が出迎えてくれた。収容所での生活については一切口にしなかった。思い出したくもないし、「極限状態の生活」は他人には理解できないと思ったからだ。
社会復帰してからも、周囲から「あいつはアカ(共産主義者)だ」と白眼視されているような気がした。いてつく大地で死んでいった戦友を思えば「生きて帰って良かったのか…」と後ろめたさをぬぐえなかった。
藤崎は言う。「なぜ抑留されなければならなかったのか。真相が知りたい。戦争で多くの犠牲者を出した責任を、私も一兵士として感じている。だから、あの体験を話さないといかんのかなと思うとです」
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全国抑留者補償協議会(東京)によると、元抑留者の平均年齢は88歳。約57万5千人中、47万人が帰還したが、生存者は現在7万人余り。県内には700人前後いるとみられる。
中央アジア・アングレンに約3年収容された小林泰紀(88)=東彼川棚町=は帰国する船内での出来事を覚えている。共産主義を収容所内に広めようとしていた元兵士たちが一斉につるし上げられた。「殺して海に捨てろ」。物騒な言葉も飛び交った。
岩崎喜美夫(81)=長崎市片淵2丁目=は、旧ソ連極東チパリの収容所で2年間、伐採作業などをさせられた。つららを食べて空腹を紛らわせる生活。帰国後「もう一度、お国のために」と思って自衛隊入隊を志したが、「シベリア帰りだから」と拒否された。
過酷な体験を記憶の奥底に封じ込め、周囲の偏見を恐れて口をつぐんできた元抑留者たち。岩崎はぽつりとこう漏らした。「われわれ(元抑留者)の存在は、戦後ずっと置き去りにされてきた。くやしかね」
(敬称略)
旧ソ連が元日本兵をシベリアに抑留した目的とは一体何だったのか。戦後処理はどのような道のりをたどったのか−。
■抑留目的/「日露戦争の報復」
1945年8月8日。旧ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本に対して宣戦布告。9日以降、旧満州などに軍事侵攻した。旧満州に駐留していた関東軍とソ連軍による停戦交渉の末、8月下旬には戦闘終結した。
日本が8月14日に受諾したポツダム宣言は第9条で「日本軍は武装解除後、各自の家庭に復帰し、平和的な生活を営む機会を与えられる」と規定。旧ソ連も対日参戦に際して同宣言に署名したが、それをほごにする形で元日本兵を長期間抑留した。
なぜ日本兵を抑留したのか。白井久也・日露歴史研究センター代表は著書「検証シベリア抑留」で「1904年の日露戦争での敗北は我が国に汚点をしるした」とのスターリンの言葉を引きながら「日本への報復」との見方を示す。
あるロシアの研究家は著書で、国土復興に日本兵の労働力を使い、共産主義へと傾注させるためだったと指摘している。旧ソ連は第2次大戦で約2000万人の犠牲者を出し、国土は荒廃していた。
■戦後補償/実態調査へ特措法
元抑留者は長い間、日本政府に抑留時の未払い賃金や謝罪を求めてきた。しかし、政府は日ソ共同宣言(56年)で両国が請求権を放棄し「戦後処理は終わった」として元抑留者への支払いを拒否。2007〜09年には「特別記念事業」で元抑留者らに10万円分の旅行券と銀杯を贈ったが、「80歳を過ぎた高齢者に旅行券とは無神経だ」などと批判にさらされた。
昨年の政権交代をきっかけに、元抑留者に一時金を支給する戦後強制抑留者特別措置法(シベリア特措法)が成立。「強制抑留の実態が十分に判明していない」として、実態調査や遺骨収集に関する基本方針の策定も盛り込んだ。未解明、未解決の課題は依然少なくない。
◎ズーム/戦後強制抑留者特別措置法(シベリア特措法)
6月16日に議員立法で可決、成立し、即日施行された。抑留期間に応じて、元抑留者に25万〜150万円を支給。施行日以降の生存者が対象。独立行政法人「平和祈念事業特別基金」の資本金約200億円を財源に充てる。「既に亡くなった抑留者の遺族にも何らかの『誠意』を示してほしい」(平塚光雄・全国抑留者補償協議会長)との声もある。
◎ズーム/抑留者の遺骨収集
厚生労働省によると、旧ソ連で発見された元日本兵の遺骨は1万7074柱(2009年度末現在)。埋葬場所は約200カ所に上る。うち身元が特定できたのは770柱。身元不明の遺骨は千鳥ケ淵戦没者墓苑(東京)に納められている。他に約300カ所の埋葬場所があると推定されるが、正確な位置が不明だったり、既に建造物があるなど「現時点で収集は困難」(同省)という。
(報道部・北川亮)
2010年8月15日長崎新聞掲載
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