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広大な軍需工場の図面に記された無数の丸印。優に数百に上るだろうか。「全部爆撃された場所ですよ。二時間でそれだけの爆撃を食らった。壊滅だよ」。第二一海軍航空廠(しょう)奉賛会の神近義光会長(79)=大村市諏訪二丁目=が図面を指し示しながら語る。
第二一海軍航空廠とは―。「放虎原は語る―大村大空襲と第二十一海軍航空廠」(大村市発行)によると、一九四一(昭和十六)年十月、現在の大村市古賀島町一帯に建設され東洋一といわれた大軍需工場のことだ。総敷地面積三百四十万平方メートルに約五万人の航空廠員や動員学徒が詰め、二十四時間態勢で、戦闘機「紫電改」や零式水上観測機などを生産。神近会長は工場建築の設計技師として、開廠から終戦まで勤務した。
四四年十月二十五日。航空廠は米軍による大規模な空襲を受けた。神近会長の回想によれば、同日午前十時ごろ、けたたましい警戒警報、空襲警報が鳴り響いた。中国・成都から渡ってきた米爆撃機B29数十機が同廠の上空から波状爆撃を展開。無数の焼夷(しょうい)弾や爆弾を雨あられのように降らせた。
廠内は火の海。「工場を死守しろ」と消火に当たった廠員を爆弾が襲った。数十センチの鋼鉄の爆弾片が顔面に突き刺さり顔半分失った者、手を切断した者…。神近会長は恐怖に震えながらも「逃げてたまるか」と負傷者の救助に走り回った。

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大村市内に建てられた大空襲犠牲者の慰霊塔=大村市松並2丁目
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二時間の空襲で東洋一の航空機工場はほぼ壊滅し、約三百人の犠牲者を出した。同廠飛行機部、補給部などは大村市郡地区や東彼波佐見町など県内外の疎開工場に機能を移したが、終戦後の四五年十一月に廃廠。開廠から四年でその歴史を閉じた。
同航空廠が爆撃された後、大村市では終戦まで数十回に及ぶ空襲があったとされる。同航空廠や大村海軍航空隊などの軍事施設が攻撃され、市民にも大きな被害をもたらした。陸軍歩兵四六連隊(現在地は陸自大村駐屯地)、同航空隊(現在地は陸自竹松駐屯地)が早くから整備され、文字通り軍都として発展を遂げた大村の宿命だったのか。
神近会長は、大空襲があった十月二十五日に合わせ大村市で毎年慰霊祭をしている。弔辞を読む時には、若くして死んだ廠員の姿がまぶたに浮かび、涙があふれ出る。命を散らした者たちのために、海軍航空廠の歴史を眠らせないために「命ある限りあの時代を語り継ぎたい」と考えている。
こうした被害の半面、大村の地から飛び立った日本の攻撃機が中国の都市を爆撃した事実も存在する。
「戦略爆撃の思想」(前田哲男著)によると、日中戦争勃発直後の三七年八月十五日。大村海軍航空隊基地を発進した九六式陸上攻撃機二十機が東シナ海を越え、当時蒋介石政権が置かれていた中国・南京を爆撃。約九百六十キロを四時間で飛び、各機十二発ずつ搭載した爆弾を南京の飛行場周辺二カ所に投下。世界で初めての本格的な「渡洋爆撃」だった。
大村基地などからの攻撃機が南京、上海などの都市に実施した爆撃は「無差別爆撃」と国際社会の非難を浴びた。空襲回数は一説では一都市で数十回、延べ数千機がおびただしい数の爆弾を落としたとされる。「『軍事目標』と『市街地』の境界は急速にあいまい化」(同書)し、多くの民間人にも犠牲が出たという。
著者である前田東京国際大教授は「日本を爆撃するために、中国・成都からB29が飛び立つのを見て、中国の人々は留飲を下げた」と語り、こう続けた。「被害の側面だけでなく、日本が犯した事実にも目を向け、戦争の悲惨さを後世に伝える必要がある」(大村支局・北川 亮)
大村海軍航空隊 1923(大正12)年12月開隊。軍港以外の土地に開隊された初のケース。海上部隊との共同作戦や空中、海上防衛などを主な任務とした。37年8月15日、木更津航空隊所属の攻撃機が同航空隊から中国に向けて飛び立ち、渡洋爆撃を行ったことで内外に名を知られることになった。
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2005年6月14日長崎新聞掲載
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