皆さん、私の話(手話)を聞いてください。
私は、生まれた時から耳が聴こえない、言葉が話せないろうあ者です。
昭和20年8月9日、一番、おしゃれをしたい年頃の18歳でした。
その日、私は、爆心地から北に6キロほどのところの疎開先の時津町で、バラックの家を建てる両親の手伝いをしていました。
11時頃、少し疲れ横になった時、突然目の前が明るくなり、オレンジ色の光を放って広がるものが見え、直後にものすごい勢いで床に叩きつけられました。
いったいなにが起きたのか、その時は恐怖よりも驚きのほうが大きかったのです。
夕方、両親と私は山里町の自宅へ戻ることにしました。家には3歳年上の姉が待っているはずでした。道ノ尾から先は道もなく、線路を伝って歩きました。川の傍に、顔や首の皮が剥がれ、足をガクガク震わせながら佇んでいる人がいて、水が飲みたかったのでしょうが、焼けただれた腕は伸ばすことができません。顔が歪み、引きつった唇が何かを訴えようとしていました。
母が、身振りで、「イタイ、イタイ」と言っていると教えてくれました。もちろん、耳が聞こえない私には、原子野をさまよう人たちの呻きもなにも聞こえません。音というものが私にはわからないのです。時々父と母が何かを話し合っていますが、私にはなにが起きたのかわからなくて、頭の中はボーとしたまま見ているだけでした。
私たちの家は爆心地近くの山里町にありました。それは押しつぶされ、残骸の奥に赤い炎を残して燻っていました。母はきっと姉の名前を呼びながら姿を求めていたのだと思いますが、私は声を出して姉の名前さえ呼ぶこともできず、ただオロオロしていました。
突然、うつ伏して両の拳で地面を叩きながら泣く母の様子から、私は姉の死を悟りその背中に覆いかぶさって大声で泣きました。夜になって、ようやく道ノ尾に帰り着いた時、浦上の真っ黒な空からは想像もできないきれいな星が輝いていたことが今も忘れられません。
私たちろうあ者は家庭にあっても、日常的な会話のほかは、ニュースや噂話から遠ざけられて、ぽつんと孤立した状況にあります。そのため、詳しい情報は伝えてもらえないまま月日が過ぎ、信じられないでしょうが、私は原爆をずっと大きな爆弾と思っていました。終戦から1年経ったある日、偶然に見た写真展で、それが実は「きのこ雲」の形をした「原子爆弾」だと知りました。
さらに、放射能を浴びた被爆者が後遺症に苦しみ続けるといった詳しい被害の状況を聞かされたのは、それから随分経ってからのことでした。ろうあ者は長い間、原爆の実態を知ることからも閉ざされていたのです。
被爆から58年が過ぎた今日、皆さんの前で、こうしてろうあ被爆者の苦しみを訴えることができて感無量の思いです。同時に、文字どおり、なにも語らないまま亡くなっていった仲間たちのことを思うと涙が止まりません。
大切な家族や親戚、友を一瞬にしてなくした苦しみと悲しみを乗り越え、今、こうして生かされている私にできることは、すでに亡くなった多くの、ろうあ被爆者の仲間達に代わって、この目、肌で感じた58年前の出来事を語り続けることです。
いつまでも、世界平和を祈り、この命が続く限り戦争の悲惨さと平和の尊さを次世代の一人でも多くの人たちに、語り(手話)続けていくことをここに誓います。
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