遺骨返還
1998年8月1日掲載

原爆の犠牲になった尹福東さんのめい福を祈る徐さん(右)ら遺族=7月19日、長崎市の平和公園内、長崎刑務所浦上刑務支所跡
遺族の心情に誠意を

 先月19日、長崎市松山町の長崎刑務所浦上刑務支所跡(平和公園内)。53年ぶりに返還される夫、尹福東=当時(33)=の遺骨を引き取りに来た韓国人被爆者、徐栄子(75)=韓国慶山市=の姿があった。ここで被爆死した尹の面影をたどっていた。

■5年にわたり交渉
 徐は1939年、日本の植民地下にあった朝鮮半島から神戸に渡り、尹と結婚。姉の徐用守(78)夫婦がいる西彼香焼島(現香焼町)に移り住んだ。尹は防空ごう掘りなどをして働いたが、生活は貧しかった。
 45年8月初旬、警察官が突然、尹を連行した。仲間の作業員たちに割り当てる米の配給を水増しした疑いだった。尹は自宅に戻ることなく、原爆の犠牲になった。
 徐は当時3歳だった長女を背負い、廃虚の浦上で夫を捜して回った。手掛かりはつかめず2カ月後、失意のうちに帰国した。夫の実家を頼ると「なぜ、死なせた」と責められ、世間からは「あんたの夫は刑務所で死んだ」と後ろ指を指された。「住居を転々とした。地獄の始まりだった」
 戦後47年が過ぎた92年、徐は長崎刑務所を訪れ、未決拘置中に被爆死した夫の遺骨の返還を求めた。しかし、刑務所側は夫婦関係を証明する書類が不十分などとして返還を拒否した。徐は朝鮮戦争で戸籍を焼失。混乱の中で再登録した書類に不備があったのだ。
 徐と支援者は何度も長崎刑務所に足を運んだ。5年にわたり続いた返還交渉だったが、決着はあっけなかった。徐が被爆者援護法に基づき特別葬祭給付金の支給を厚生省に申請。同省の委任を受けた長崎市が、聞き取り調査などで2人の夫婦関係を認定し、昨年6月に同給付金が支給された。これを受け、刑務所側が再検討し、わずか1年で返還が決まった。
 同刑務所総務部長の田中寿夫は「遺骨は遺族からの請求を受け返還するが、遺族関係を証明してもらわなければいけない。今回の返還は、同じ国の機関である厚生省の認定に基づいた」。徐の支援を続ける県被爆二世教職員の会会長の平野伸人(51)は言う。「初めから国が誠意をもって取り組めば、こんなに時間はかからなかった。刑務所はすべて書類だけで判断し、自ら調べようともしなかった」

■外国人は手付かず
 日本政府は遺族の要望にこたえ、フィリピンや旧ソ連などで戦時中に犠牲になった旧日本軍の軍人、軍属などの遺骨収拾事業を52年度から続けている。だが、日本国内で戦争の犠牲になった外国人については手付かずの状態。
 「返還までの経過は、日本の政治による韓国人被爆者に対する『放置』を象徴している」。長崎在日朝鮮人の人権を守る会会長の高実康稔(58)は続ける。「なぜ徐さんの問題が生じたのか。植民地化や戦争は、すべて日本がまいた種。自らおわびして返還するのはむしろ日本の方だ。しゃくし定規の審査では、日本の人権水準が問われる」
 今回の遺骨返還は、日本政府が遺族の心情にこたえる誠意と、過去の歴史を直視する姿勢を問うた。
 「一緒に帰ろう」。尹の遺骨は53年の歳月を経て1日、妻の徐の胸に抱かれる。徐の長い戦後にようやく一つの区切りがつこうとしている。(文中敬称略)=おわり=

メ モ
長崎刑務所浦上刑務支所  長崎市松山町の平和公園が同刑務支所跡。爆心地から最も近い公共の建物で、爆風と火災により一瞬にして全施設(計13棟)が全壊、全焼した。当時、中国人33人、朝鮮人13人、日本人35人の計81人が収容されていたが、全員即死した。


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