
| 玉之浦港 (五島玉之浦町) |

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遠洋漁業の中継基地 「船が入ると朝まで人通りが絶えることなく、通りに出れば肩と肩が触れ合うほどだった。昼も夜も三味線の音が町中に響いとった」。五島玉之浦町に住む宗熊夫さんは、遠洋漁業の中継基地として栄えた大正から昭和初期の町の様子をこう語る。 細長く入り組んだ港は、無動力船が主流だった明治30年ごろ、四国や九州各地から東シナ海へ向かう船団の中継基地として注目された。町民は船員たちを自宅に住まわせ、家賃で生計を立てた。町には二十数軒の料亭が並び、海の男たちをもてなした。 現在の町人口は2500人をやっと上回る程度だが、昭和初期には1万人を超えた時期もある。昭和4年の大火では民家など107軒が焼け落ちたが、半年以内にはすべて建て替えられたという出来事が、当時の町の豊かさを物語る。 しかし、漁船の性能が向上するに伴い、船団は一隻また一隻と町から去り、同12年までに姿を消した。県外船は消え、町民自ら船団を組織することはなかった。 それでも、平地が少ない町にとって活路を見いだすにはやはり海しかない。同42年ごろからタイやハマチの養殖が始まった。捕る漁業から育てる漁業への転換が成功。同50年代には三十数億円の売り上げを記録、往時ほどではないが、町に再び活気が戻った。 全国的な生産過剰からここ数年、値が低落し売り上げは落ちているが、今でも町の基幹産業である。漁業の盛衰が即、町勢を左右する。時代が変わっても町と海のつながりは変わらない。 |
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内海となって穏やかな港は国際避難港になっている。台風のときなどは中国船など40隻近くの遠洋漁業の船が入り、中継基地だったころをしのばせる。 |