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   川原ばやし   (岐宿町)    


田植え歌・踊りで豊作に
 昔、川原の水田の所々に白穂ができ、人々は肥塚の跡だといって気に留めなかったが、二、三年後には白穂が、村中一面に広がった。年貢は納められず、縄やわらじも作れず、困り果てた人々は、この枯れ穂は神仏の祟りだろうといって、小川原の大嶽宮のふもとに西福寺を建て、稲の守護を祈った。
 翌年の春、田植えをしていると、子供を背負った女が通りかかり、田植え歌を歌い踊り始めた。大変上手だったので、あっちこっちから呼ばれて踊ったら、不思議にもその水田には白穂が出ず、豊作だったという。女は村人の願いを受け、踊りを教えた。何年か一緒に踊っていたが、白穂も出なくなったある年、行く先も告げず、子供とともに村を出て行ったままついに姿を現さなかった。
 人々は、母子を稲穂の神様の化身だったのだろうと、西福寺のわきに祠を建て、子供を背負った女の像を安置して産土神として祭り、感謝崇拝した。
 そのことがあってから、村人は総出で踊りを組み豊作を祈願して、必ず年一回は、田の神へ奉納するようになったといわれている。この踊りが、地芝居になったのは明治初期との説もある。
 演題は忠臣蔵が最も多く、次に石童丸、阿波の鳴門などで、踊りは、幕間や最初に出していた。大きな集会施設がなかった昔は、舞台も自分たちで作り、川の水で土砂が流されて堆積してできた芝草原が、にわか芝居小屋と見物席になった。子供のころ、川の飛び石が恐ろしくて、足が震えたのを覚えている。
 戦争で芝居は中断したが、昭和四十年ごろ「顔出し」程度の芝居があり、再び中断。しかし、地元有志の努力が実りこのほど「川原ばやし」として復活した。
(松山 勇)

  メ   モ  
 川原地芝居最盛のころ、福江の増田にも地芝居があり、芝居の日取りをずらして、衣装や小道具を互いに貸し借りして使っていたという。特筆すべきことは、配役は個人ではなく、祖父〜父〜長男〜孫と世襲になっており、練習も各家でしていた

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