池島炭鉱閉山 その日の表情

(11月30日掲載)

 【大瀬戸】九州最後のヤマの灯が消えた。二十九日閉山した池島炭鉱(西彼外海町)では、最後の採炭作業を終えた鉱員らが、戦後復興を支えてきた石炭産業への誇りと寂しさを胸に坑道を後にした。戦後最悪の雇用情勢の中、閉山に伴う離職者は下請けを含め約千三百人。転身を余儀なくされる炭鉱マンたちの前途は平たんではない。「これが最後」。一時代の終えんに立ち会ったヤマの男たちの胸に複雑な思いが去来した。

最後の採炭を終え、さまざまな思いを胸に昇坑してきた炭鉱マン=29日午前6時5分、西彼外海町池島、池島炭鉱第二立て坑
九州最後のヤマ誇りに

 池島炭鉱(西彼外海町)の最後の採炭作業を終えた鉱員たちが二十九日朝、昇坑した。手には生活の糧としてきた石炭のかけら。「九州最後のヤマで働いたのを誇りにしたい」。石炭の粉で黒くなった顔に感慨深げな表情が浮かんだが、寂しさと先行きへの不安も隠せなかった。

 二十八日夜に入坑、最後の作業を終えた三番方の鉱員らは、二十九日午前六時すぎから順次、坑口から出てきた。池島で生まれ、二十一年間働いた松本義次さん(42)は「最後だからできるだけ炭を出そうと、いつも以上に精を出した。今日のことは忘れきらん」。思い出にと、提げ袋の中に詰めてきた黒い石をじっと見詰めた。

 中村孝治さん(45)は「けが人が出なくて良かった」と無事故で締めくくったことにホッとした表情。「日本で二つだけ残った炭鉱の一つで働けた。それが誇り」

 「一年くらいでヤマを去るつもりが、いつの間にか二十三年。『住めば都』やった」。池田和弘さん(47)は閉山がつらくてならない。長男(18)も炭鉱マンの道を歩み始めてわずか半年。息つく間もなく、親子で職を探す日々が待っている。

 石炭の塊を抱えて昇坑した鉱員が多い中で、八木繁さん(52)はあえて何も手に取らずに出て来た。「すっきり終わりにしたいから。でも家に戻っていろいろ思いだすやろう。今やりたいことは、そうやねえ、まず家内と温泉にでも」。先行きは定まらないが、今はわずかな心の平穏を求めている。



「これからもご安全に」 田代社長と組合長代行

 池島炭鉱(西彼外海町)が閉山した二十九日、同炭鉱を経営する松島炭鉱(福岡市)の田代勉社長と、松島炭鉱労組の井手口二郎組合長代行が、鉱員らを前に閉山の日を迎えた思いを語った。

 最後の採炭作業を終えた鉱員が昇坑してしまった後の午前八時二十分、田代社長が第二立て坑に現れた。鉱員や協力会社の社長ら約八十人を前に田代社長は「閉山の日が来て残念で、無念で、断腸の思いだ。経営陣の力が及ばず、皆さんと家族に深くおわびする。これまで存続できたのは先輩たちの苦労と松島炭鉱の宝である労使協調のおかげ。それぞれの道に進むと思うが、池島で働いたことを誇りにして生きてほしい」と淡々と語った。

 続いて井手口組合長代行が「とうとう十一月二十九日が来てしまった。皆さんの努力にもかかわらず今日を迎え、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。九州の、いや日本最後のヤマの男として自信と誇りを持ってほしい。本当にありがとう」と、共にヤマを守ってきた仲間たちに頭を下げた。

 二人の締めの言葉は、坑内に向かう作業員を送るときに使う言葉を用い「これからもご安全に」。



「代行」務めた井手口書記長 激動期束ねたリーダー

 「閉山提案からこの一カ月半はあっという間だったよ」。松島炭鉱労組の井手口二郎書記長(53)は「組合長代行」の肩書を背負ったままで閉山の日を迎えた。

 昨年夏のボーナス交渉で当時の組合長が辞任。「自分は陰で支えるタイプ」と補佐役に徹してきたが、閉山へと向かう激動期の表舞台に立たされ、組合員約六百人を束ねてきた。

 一九九九年四月に始まった賃金25%削減では「執行部は何をしている」と批判の矢面に立たされた。「三人分の給料で四人を養うんだ。そうすれば仲間を失わなくてすむ」と必死で説得に当たった。

 伝統の労使協調路線をかなぐり捨てたのが、閉山に伴う労使交渉。退職金や雇用保険の算定基準となる賃金25%削減の一部復元を組合員に約束し、会社側と激しい応酬を繰り広げた。そして勝ち取った満額回答。執行部全員で肩をたたき合い、涙を流して喜んだ。

 「先輩から受け継いだヤマを守る」が口ぐせだった。今後は仲間の再就職あっせんという大仕事が待つ。「最後までヤマで働いた男としての誇りを持ち、今後を生きていこう」と組合員らに最後のあいさつをする姿に、同僚の幹部は「本当に頼りになるリーダーだった」とつぶやいた。



今はただお疲れさま 関係者らさまざまな思い

 二十九日閉山した西彼外海町の池島炭鉱。親会社や労組のOBをはじめ、地元首長や経済関係者らにさまざまな思いが広がった。

 親会社などのOBは感慨深げ。松島炭鉱元社長の押井健一さん(69)は「社長を務めたのは一九八九年からの約三年間。国内炭値が下がる中、経営維持のコストダウン策に日夜取り組んだ。やはり国の石炭政策なしには炭鉱経営は難しかったと思う。それでも炭鉱の存続に全力を挙げた現役の経営陣にはお疲れさまと言いたい」。松島興産(現三井松島産業)元会長の武冨敏治さん(91)は「三井鉱山を経て松島炭鉱入社後は大島、池島鉱とともに歩んできた。私の人生は石炭に始まり石炭に終わると言ってもいい。青春を懸けて育てた池島鉱が閉山するのは感無量と言うほかにない。最後に入坑したのは八十歳だったが、立派になった坑内の様子が今でも焼き付いている」。

 一方、壇栄康元松島炭鉱労組組合長は「ついにこの日を迎えたかと言葉では言い表せない気持ち。組合長を務めていた一九八七年、会社側は大幅な生産縮小などの合理化案を提示。頭の中が真っ白になりながら、池島の存続を懸けて労使協議に臨んだことが記憶に深い。閉山に至る労使交渉の陰には、組合にとっても想像を絶する苦難があったと思う。今はただお疲れさまと言いたい。関係者には組合員の再就職や島を荒廃させないための対策に万全を期してほしい」と炭鉱マンの再就職などを思いやる。

 地元の山道幸雄外海町長は「池島炭鉱の経営安定を町政の最重要課題と位置付け努力してきたが、報われない形となり非常に残念。操業開始以来、町唯一の基幹産業としての炭鉱の多大な貢献に感謝したい。今後も国、県などと連携して島の生活基盤対策、地域振興など山積する課題に全力で取り組みたい」。

 今月二十七日に三菱炭鉱高島砿業所が閉山から丸十五年を迎えた西彼高島町。豊田定光町長は「池島炭鉱からヤマの灯が消えるのは、当時の混乱や不安が思いだされ感慨深い。失業率が高い厳しい時世なので大変だろうとお気持ちを察します。働く人たちの再就職や生活の安定が一日も早くできることを心から祈っています」と話した。

 池島炭鉱閉山という地域の基幹産業の消滅に、大野茂九州・山口経済連合会長は「関係自治体には、国と連携し雇用対策に全力を尽くしてほしい。地域振興の問題も含め、本会も微力ながら協力したい。今後は優秀なわが国の採炭技術が海外で広く生かされるよう願ってやまない」、吉本孝一九州経済産業局長は「関係自治体や各省庁とも緊密に連携し、炭鉱離職者の雇用や地域振興対策などに最大限努力する」とそれぞれコメントを発表した。

 国内最後の炭鉱となった太平洋炭砿の地元の綿貫健輔釧路市長は「炭鉱関係者や外海町民のやるせない心中を察するに余りあり、誠に残念。国内最後のヤマとなってしまった状況を真摯(しんし)に受け止め、ヤマの灯を消さないための手だてを可能な限り行っていきたい」と話した。


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